武蔵国の農民による京都見物
これまでの話を振り返ると、江戸時代の京都見物について、第3回には絵入りの案内記である『都名所図会を、第4回には実用に即した小型案内記である『京城勝覧』を紹介してきました。そして前回は、『京城勝覧』を利用して名所見物をおこなった旅日記について取り上げました。そこでは、小型案内記を利用して名所見物をおこなっていた旅人は、記載されている名所をただめぐるだけではなく、自らの見聞を広めようとしていたことをお話ししました。
このような旅人自らの興味関心が関連する名所見物は、旅人の社会的な属性によって訪れる名所やそこでの記述が異なります。そこで今回は、江戸近郊の農村であった多摩から伊勢参宮へ旅立った農民による京都見物の事例を扱います。次回は、それとは異なる「知識人」といえる旅人によるものを取り上げ、次々回には両者の行動の差異やその要因についてお話しする予定です。
今回紹介する旅日記の名前は、『伊勢讃岐道中日記』(1849)です。書いた人物の名前は不明なので、ここでは仮に、旅人・甲と呼ぶことにします。甲の同行者は33人おり、同じ村だけではなく、近郊の村の者も混じっています。これはおそらく、同じ伊勢講に所属している人々だと思われます。
第1図には、甲の旅の行程を示しました。1月10日に村を出立した甲は、多摩から東海道を上り、伊勢参宮を終えたのちに大和や高野山を訪れ、大坂をめぐってから船で讃岐へ渡って金毘羅参詣をおこないました。それから再び海路で宮島へ向かい、厳島神社を参拝しています。帰路は、下津井(現在の岡山県倉敷市)まで船を利用し、瑜伽山を参詣したのち、陸路で東へと向かいました。姫路、明石、西宮などを経て、そのまま京都へ入っています。京都見物を終えたあとは、中山道を利用して帰路につき、3月23日に故郷へ帰着しています。3ヶ月半ほどの旅でした。
宮島まで行くというのは、当時の東国からの旅のなかでは随分と遠方まで足を延ばしたものでした。同行した人々は、全員がこの行程を旅したわけではなく、伊勢から帰った者、大坂や丸亀で引き返した者などがおり、京都まで同行したのは9人でした。
京都に着いたのは、2月29日でした。第2図は、甲の京都における名所見物の行動を地図化したものです。南から京都を訪れた彼は、はじめに石清水八幡宮を訪れました(図中に赤色で示した行程)。そののち、東へ足を延ばして平等院や万福寺といった宇治の名所をめぐります。この日は、伏見の芝屋六兵衛という宿に宿泊しました。
翌3月1日には、伏見稲荷から三十三間堂、大仏などをめぐりました(橙色で示した行程)。現在、大仏といえば奈良のイメージですが、江戸時代においては、方広寺にあった京都の大仏も名所として多くの人々を集めていました。ただし、この大仏は寛政10(1798)年に落雷による火災で焼失してしまいます。
第3図は、『都名所図会』(1780)に描かれた大仏殿の様子です。四角で囲った部分に、大仏の顔が描かれているのが見えます。甲が訪れた際には、この大仏はもうありませんでしたが、旅日記には「胸より上だけの大仏があった」と記されています。実は、天保年間(1830-1844)に、尾張国の有志の寄進によって、旧大仏の十分の一の半身像が造られたのです。旅人は、この半身像を見たのだと思われます。
3月2日、甲は200文で雇った案内人とともに、名所見物へ向かいました(黄緑)。当時の蕎麦の値段から、1文を20~30円として換算すると、案内賃は4,000~6,000円になります。京都まで同行した者は9人いたため、おそらく作者を合わせた10人で負担したものと考えられます。これは、京都で農民の旅人が雇う一般的な金額であるといえます。
彼らは、まず内裏(京都御所)へと向かい、そのまま東へ向かって、吉田神社や真如堂、黒谷(金戒光明寺)を経て、知恩院、祇園社(八坂神社)、清水寺などを東山山麓の名所をめぐりました。六角堂前にある宿へ帰る道中、泉涌寺や東本願寺へも立ち寄っています。
案内人の有無が関連するのかはわかりませんが、甲は東山の名所についてさまざまなことを旅日記に書き残しています。例えば、黒谷では、熊谷直実や平敦盛の墓所やゆかりの松があることに触れ、南禅寺では山門に石川五右衛門が住んでいたという伝説を記しています(実際には、山門は1447年に焼失し、再建されたのは1628年であるため、五右衛門が住むことは不可能です)。また、今年ならではの事柄に触れておくと、知恩院の近くにある明智光秀の首塚にも訪れ、光秀は京都の人から尊敬されているということが記されています。
京都見物の最終日となる3日には、はじめに二条城を訪れました(緑色)。しかし、現在のように拝観ができるわけではないので、おそらく外から眺めたのみだと思われます。そののち、北野天満宮に参詣しました。道中に、西陣織の織屋があったことが日記に記されています。それから、甲は内裏で開かれる「御鶏合」を見物しに向かいます。これは所謂闘鶏で、宮中の年中行事として3月3日におこなわれていました。
翌3月4日、甲は京都を発って近江国の三井寺へ向かいました。第2図を見るとわかるように、見物行動は京都の東部に偏っており、嵯峨(嵐山)の名所へはまったく訪れていません。旅日記には、「京都の名所をあらまし見物するには、7日ほど滞在すべきである」と記されており、自身でも名所をめぐりきれなかったと考えていたようです。
このような行動の地理的な偏りには、冒頭に述べたように旅人の社会的な属性が関連しています。次回は、江戸から旅立った知識人による京都見物について取り上げたいと思います。