せとうち観光専門職短期大学

観光Web講義


谷崎 友紀

歌枕をめぐった石出常軒の『所歴日記』

 今回は、少し時代が遡りますが、近世初期に京都を訪れた知識人である石出常軒の名所めぐりについて取り上げたいと思います。本題に入る前に、まず「名所」について少しお話します。

 現在、私たちは「名所」と書いて「めいしょ」と読んでいます。「桜の名所」や「紅葉の名所」という使い方が一般的であり、「観光スポット」と似たような意味で使うこともあるかと思います。もともと「名所」とは、歌が詠まれた「歌枕」を指す言葉であり、「ナドコロ」と読んでいました。中世以前は、和歌を詠むための抽象的な概念であったようです。それが、近世に入り、旅が盛んになったことから実際に訪れて楽しむ場所を「名所(めいしょ)」と呼ぶようになりました。常軒の「名所」めぐりは、このことをよく示しているように思います。

 常軒は、京都の名所を訪れると和歌を詠んだり古歌に関する記述を残したり、その名所にまつわる伝承記事を収集したりしていました。「ナドコロ」である「名所」と近世的な「名所」の両方を積極的に訪れた「名所めぐり」であったといえます。今回は、とくに常軒の「ナドコロ」を訪ねる行動に着目してみたいと思います。

 常軒の精力的な「名所めぐり」は、彼の人物像に関係しています。常軒は、江戸幕府の牢屋奉行を務めた人物です。彼は、公務の傍ら学問に励み、『源氏物語』や国学・儒学を学びました。学友に山鹿素行がいたり、山崎闇斎に神道を指導したことがあったり、隠居したのちは和歌集や『源氏物語』の注釈書を著すなど、幅広い学問的な知識を持つ人物でした。

 今回取り上げる『所歴日記』(1664)は、常軒が49歳の時に有馬へ湯治に行った際の記録です。全5巻から成り、出版はされていないものの、写本で多く伝わったとされています。 第1図には、常軒の旅の行程を示しています。常軒は、3月3日に江戸を出立し、東海道を上って15日に伊勢神宮へ参拝、24日に京都へ到着しました。京都には4月30日まで滞在し、さまざまな名所をめぐっています。そののち、常軒は奈良や大坂を経て5月10日に有馬へ到着、19日まで滞在し、明石へ立ち寄ってから再び東海道を下り、閏5月8日に江戸へ戻りました。

第1図 『所歴日記』にみる石出常軒の旅の行程

 常軒の京都における行程を示したのが、第2図です。見物の1日目には、「早く京都めぐりをしたく、まずは近い東山からと思い」と心情を記し、大仏や三十三間堂、清水寺といった東山の南部をめぐりました。2日目である27日には嵯峨を訪れ、その日はそのまま一泊し、翌28日に愛宕山へ登りました。その疲労からか、29日は宿の周辺の寺をめぐるにとどまっています。 4月2日には、南禅寺や永観堂といった東山北部をめぐりましたが、途中で雷雨に遭い、宿へと戻りました。雨は6日まで続き、翌7日に再び銀閣寺や黒谷といった東山の北部をめぐっています。8日には、大徳寺や北野天満宮といった市街地の北西部、11日には鞍馬寺・貴船神社など遠方へ足を延ばしました。14日には、西方の三尾(神護寺・西明寺・高山寺)を訪ね、15日には寂光院をはじめとした大原の名所、16日には向日明神や光明寺といった大原野をめぐるなど、遠方の名所をめぐる行動がみられました。

第2図 京都における石出常軒の訪問名所

 ここで、常軒の4月16日の行動を少し詳しくみてみましょう(第3図)。この日、常軒は善峯寺を訪れるために明け方に宿を出て、六角堂、東本願寺、東寺などをめぐりながら、洛外の南西にある向日・大原野を目指しました。向日明神や善峯寺を訪れたのち、常軒は大原野神社へ向かおうとします。図中の①のあたりで、大原野神社の鳥居らしきものを見つけたと思われます。そこから1里(約4㎞)ほど進んだ②のあたりで、「大原野春日大明神」と書かれた鳥居をくぐります。しかし、そこから5町(約500m)ほど進んだものの、社を見つけることができません。行き会った人に尋ねたところ、社までは20町(約2㎞)ほどもあるといわれ、同行していた友人には、日が傾いてきたので今日は諦めるように説得されてしまいました。

 「いと口おし」と記した常軒は、転んでもただは起きぬ性格なのでしょうか、帰路に歌枕である「冴野の沼」を探すことにしました。すると、途中で大きな沼を見つけます。これではないかと思うのですが、確信が持てません。そこへ、薪を背負った地元の人が通りかかりました。常軒は、その人に「これは冴野の沼か」と尋ねます。その人はそうだと答えたので、常軒は満足して〈小塩山 あらしはけしき とこそハ 冴野の沼と いふへかりけれ〉という歌を詠んで宿へ帰りました。

第3図 常軒の大原野における推定経路

 このように、常軒は、現地の人に聞くことで歌枕の場所を比定しています。それは、歌枕=名所を訪れて、そこで歌を詠むことにこだわりを持っていたからでしょう。ただし、彼が歌を詠んだ沼が、本当に「冴野の沼」であったのかは疑問が残ります。

 現在、冴野の沼は勝林寺の境内にあるとされています。しかし、第3図にあるように、常軒が鳥居から5町進んだところ(③)で大原野神社への訪問を諦め、帰路についたのであれば、勝持寺にある冴野の沼を見ているのは不自然です。また、常軒は28日に勝持寺を訪れていますが、その際に冴野の沼については触れていません。

 この時期に刊行されていた案内記『洛陽名所集』(1658)をみると、沼の場所については「小塩山のすそ也」とあるのみで、明確な場所は記されていません。「勝持寺の境内にある沼が冴野の沼である」という認識がいつから人々の間に定着したのかはわかりません。しかし、常軒が京都を訪れた近世初期には、歌枕についての場所の認識が定まっていなかったものと推察できます。そのようななかでも、常軒は歌枕の地をめぐることに強い関心を持っていたのだといえます。

 歌枕をめぐる際に常軒が参考にしたのは、『類字名所和歌集』(1617)という和歌集です。これは、常軒と京都で交遊のあった連歌師である里村昌程の父、昌琢の編纂したものです。常軒は、この和歌集に所収された和歌が詠まれた歌枕を精力的にめぐり、自分も歌を詠んだり、古歌の詠まれた景色を眺めたりしていたのです。このような和歌に関する名所への関心は、知識人による行動の特徴のひとつといえるでしょう。

 次回は、常軒のような知識人と、前回取り上げた『伊勢讃岐道中日記』の作者をはじめとする庶民の旅人の行動の違いについて、もう少し詳しくみていきたいと思います。

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