独自の発展を遂げた「島の自然」 寒霞渓 ①
これまでの観光Web講義では小豆島の「産業」や「文化」を紹介してきましたが、今回は「島の自然」と題し、小豆島の代表的なスポットである寒霞渓の魅力を紹介します。
寒霞渓は小豆島の中央に位置する山岳部、標高612メートルにあり、雄大な大渓谷と瀬戸内海を一望することができます。また「カンカケイニラ」や「ショウドシマレンギョウ」などの固有植物が生育するほか、「法螺貝岩」や「玉筍峰」などの奇岩を見ることができる自然豊かな景勝地として、これまで国立公園や日本遺産に指定されてきました。
今回は寒霞渓の雄大な自然の魅力を、地質が形成された経緯や観光地としての歴史をもとに解説します。
まず、寒霞渓の成り立ちを地質が形成された経緯をもとに説明します。
小豆島は約8,000万年前(白亜紀後期)にできた花崗岩類が基盤となっており、そのうえに1,300万年前から1,500万年前(新第3紀中世紀)に噴出した瀬戸内火山岩類が堆積し、さらにその後1,000万年以上の長きにわたり、地殻変動や浸食を受けながら形成されました。特に小豆島のなかでも山岳部にある寒霞渓は「寒霞渓火山岩類」として、安山岩層や火山角礫岩層などの岩塊があり、現在も表12景、裏8景からなる奇岩や崖地を近くで見ることができます。
また小豆島の基盤となっている花崗岩は江戸時代以降に島の麓の丁場で採石され、建築物を支える礎石として重用されてきました。1620(元和6)年から10年にわたり徳川幕府が大坂城(現:大阪城、所在地:大阪市中央区)の再築工事を行った際には、小豆島の多くの花崗岩が運び出され、城の石垣として使われています。
では寒霞渓に戻ります。5回目の観光Web講義でも説明しましたが、寒霞渓という名称の由来は日本書紀にも記述があり、応神天皇が「この山の岩やモミジに鉤(かぎ)を掛けて登られた」ことから「鉤掛山(かぎかけやま)」のちに「神懸山(かんかけやま)」となりました。そして1878(明治11)年に香川県出身の儒学者・藤沢南岳が「寒霞渓」と命名して現在に至っています。
さて火山岩類が侵食してできた奇岩など手つかずの自然が残る寒霞渓は、明治期になり地元の有志によって自然保護の動きが始まります。
その代表的なものが神懸山保勝会の創設と活動です。1898(明治31)年、「寒霞渓の継承風致を保持し、その遊覧施設の改善を図る事業を行い、もって観光事業の振興に寄与する」ことを目的とした神懸山保勝会が創設されます。神懸山保勝会の会員は山に樹木を植え、観光客の増加にあわせて遊歩道を整備するなど環境の保全に努めてきました。現在も寒霞渓が訪れる人々を魅了するのは、長い年月をかけて自然を守ってきた地元の人々の熱意ある活動の蓄積と言えるでしょう。
そして昭和期にはいり、寒霞渓は日本有数の景勝地として、その名を広く知られるようになりました。
そのきっかけとなったのは、1934(昭和9)年、3月16日、寒霞渓が日本初の国立公園となる瀬戸内海国立公園として、雲仙国立公園(現雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現霧島錦江湾国立公園)とともに指定されたことです。当時の瀬戸内海国立公園の指定区域は小豆島の寒霞渓から香川県の屋島、岡山県の鷲羽山、広島県の鞆の浦までの備讃瀬戸を主としたエリアでしたが、その後は区域の拡張が行われ、現在は大阪府や福岡県などを含む1府10県にまたがり、海域を含めると国内で最大面積を誇る国立公園となっています。
このように、日本で初めて国立公園に指定され、自然が守られてきた寒霞渓に1963(昭和38)年、麓の紅雲亭から寒霞渓山頂のルート、全長917メートル、標高差317メートルを約5分で結ぶ「寒霞渓ロープウェイ」が開通しました。その後、1970(昭和45)年には、麓から寒霞渓山頂まで大型バスが走行できる、全長15.7キロメートル、対面2車線の道路「寒霞渓ブルーライン」が開通するなどインフラ整備が行われ、高度経済成長を背景に周遊型観光が増加しました。
しかし、観光が多様化するなかで寒霞渓の魅力を訪れる人に伝え、リピート化を実現するためには周遊型観光のように見て楽しませるだけではなく、更に自然の奥深い魅力を付加価値として提供することが大切です。コロナ禍を受け、今後の観光の在り方が問われるなか、寒霞渓を一流の景勝地として保つためには、自然と観光をつなげる新たな試みが必要と考えられます。
(参考:寒霞渓の魅力、小豆島石の文化シンポジウム資料集)