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堀田 明美

『ガラテーオ よいたしなみの本』 書籍紹介②

 前回に続き、今回もイタリア人ジォヴァンニ・デッラ・カーサ(1503-1556)が著した『ガラテーオ よいたしなみの本』(池田廉 翻訳、以下書名を省略し『ガラテーオ』とします)の書籍紹介②として綴っていきます。

 前回挙げた目次内容30章(項目)からは、多くの共通した特徴が見られます。礼儀作法に関することは、相手に伝えることが難しい事柄でもあり、伝え方の工夫が必要です。池田の「『ガラテーオ』についてのノート」によれば、デッラ・カーサはもともと滑稽な詩を発表し、聖職者より諧謔(かいぎゃく)詩人として知られていたとあり、言葉を巧みかつ上品に扱うことができ、そうした工夫も入念になされています。以下にこの書籍の特徴を3つ挙げます。

 1つ目は、高圧的にならない配慮からか、まず無学の老人が若者に対して語る設定とし、内容自体も聞き伝えを多く用いていることです。出所、論拠に触れ、自分の立場もやんわりと示しながら、仄聞(そくぶん)を上手に使っています。例えば「ローマの紳士で、教養もあり、卑俗でもなく機智にとんだ学者のフラミニオ・トマロッツォ氏の打ち明けた夢の話」(第12章)、書き出しとして「誰かからもうお聞きのことかと思いますが」(第14章)、挿入句として「私がむかし会ったある博識の学者から聞いた話ですけれど」(第26章)、「ある時私が文学者仲間からきいた(原文ママ)話なのですが」(第30章)のような導入です。このことは池田の注でも、違う箇所を挙げ指摘されています。

 2つ目は、ジォヴァンニ・ボッカッチォ(原文ママ)(1313-1375)の『デカメロン』をはじめ、ダンテの『神曲』、同時代の作家の書籍など、多くの文学者の文言が引かれていることです。本文には、教養があると見えてもどこかの礼儀作法が欠落しているという話がよく出てきますが、そうした人には特に伝え方が難しいため、当時の文士の言葉を引くという工夫だと思われます。なかでも『デカメロン』からの引用の多さは際立っています。本文中から引かれている言葉や状況は、後世の訳者や解説者による注が施され、特に池田の日本語翻訳版では注が多くわかり易く示されます。池田によるデカメロンの語り手たちの注に「枠形式のなかで活躍する身分の高い紳士淑女たち」とあるのも、そうした人たちや話題を引き合いにする意図が見られます。

 各章の注に『デカメロン』からの引用がある箇所は次の通りです。第8章6日4話、第11章デカメロン全体・3日4話・4日、第13章6日10話、6日5話、第16章5日6話、第19章6日5話・9日8話・第20章4日3話、6日1話、6日2話、ディオーネの語り・5日10話、第21章1日8話、第22章8日2話・1日2話・4日3話、第23章10日8話・第29章1日6話で、引用や固有名詞の表記はこれら20か所にのぼります。『デカメロン』(十日物語)に関して、少し説明を加えます。『デカメロン』は、1348年にヨーロッパで猛威をふるったペストを逃れるため、フィレンチェ郊外にこもった10人(男3人・女7人)が10日間でそれぞれ10話づつ、100話を語り合うという設定の散文です。この設定は、14世紀に起こったペストを回避するための状況でしたが、2020年以降のコロナ禍において、イタリア、オーストラリア、ニューヨークをはじめ、様々なデカメロン・プロジェクトがあったことも付け加えておきます。

 3つ目は、うわべだけの上品さや、人間本来の内面や自由に対しての拘束的な礼儀作法を忌避していることです。ここまで二つ挙げた特徴により、礼儀作法の書籍としての品位や体裁を十分に保ちながら、大切なことはうわべだけの礼儀ではなく、一人一人のかえがたい自由や、思いどおりに生きる自由を目指していることです。拘束的な礼儀作法はスペインから入ってきたものであり、イタリアのものではないという論調が多く見られます。

 ここからは、以下4つの章に関する内容を要約します。書籍タイトルにもなっている友人の名前「ガラテーオ」について書かれている唯一の章である第4章「ガラテーオ氏登場」、最終章に近い第26章「美について」・第27章「感性ばかりでなく知性からも」・第28章「節度は大切、特に服装は」からです。

 まず第4章では、ジォヴァンニ・マッテオ・ジルベルティ司祭とリッチャルド伯爵との逸話が語られまが、その二人の間で、ガラテーオ氏が一役買います。司祭は、ヴェロ―ナの町で活躍した人文学者でもあり、賢く宗教書にも詳しく立派にたしなみをそなえている方で、特に自宅での接待に関しては聖職者に似合った中庸の応対で、客をもてなしたとされます。この「中庸にふるまうこと」に関しては、第2章のタイトルにもなっています。ある時、リッチャルドという伯爵が数日間司祭の家に滞在することになり、滞在中は騎士のような振舞いだったのですが、彼にはただ一つ欠点がありました。それは食事中に立てるピチャピチャという音でした。そのことをなんとか不快な思いをさせず伯爵に気づいてもらおうと、司祭はガラテーオ氏に相談し策を練ります。伯爵が帰る時に、ガラテーオ氏に途中までの見送りを頼み、そこで伝えてもらうよう計らったのです。ガラテーオ氏は、リッチャルド伯爵の丁寧な態度に十分のお礼を伝えた後で、司祭からことづかった「お土産」という言葉を使い、気持ちよくその「お土産」を納めてくれるように頼みました。その「お土産」こそが、耳障りな食事中の音に関しての指摘だったのです。そして、こんな素敵なプレゼントを差し上げることができるのは司祭以外他には誰もいないということも伝えます。当の伯爵は、全くこうした欠点に気がつかなかったらしく、しばらく赤面した後、この伯爵も立派な人らしく次のように語ったそうです。「かりに人々がお互いに交換しあう贈り物がみんな、いま私があなたからいただいたようなものでしたら、さぞかし贈り物は今よりずっと充実したものとなるでしょう」と。伯爵はそう述べ、こうした短所を直すよう努めることを司祭様に伝えて欲しいとしたうえで、ガラテーオ氏に対しても「ご無事で館までお帰りになりますように」と述べたとあります。いつの時代でも伝えにくいことを伝えるためには、双方の卑屈でない態度、互いに教養と尊敬があること、そしてぴったりの言い方とタイミングが必要だということでしょう。

 最終章に近い第26章から第28章までは、よいたしなみに関する美や感性や節度といった抽象的な概念を、例え話を用いながらわかり易く説明しています。

 第26章では、美や節度は人間だけの特権であると説きます。部分の相互や部分と全体の間に一定の節度が保たれており、バラバラなものではなく、総じた一つとして美は成り立つとあります。また美しさは肉体に特化したことでもなく、話し方や動作にも同じように表れるとし、人の気に障らないようにするためには、見られたその時に複雑性やちぐはくなものを感じさせないようにすることだと述べています。

 第27章では、自らの態度に関して努力を払う必要があり、そのための感覚と知性の一致を論じています。例えば、1千年前の衣服が今世紀の人には適さないという理由を知ること、などです。思慮が必要な時と場所に関して、人格と動作を一致させることで人はそうしたしっくりしたものに憧れ、喜びと楽しみを得るとします。美とか気品とかしつけなどを、知的に理解することは難しいことですが、それを直接感じ取ることは誰にでもたやすいことだと説いています。

 第28章では、ただよい行為をしたからといってそれで満足するのではなく、努めて美しくふるまうようにありたいとしています。世間の人達と交際する際、好ましく思われたいならば、何よりも悪徳と悪い習慣を避けることとあり、ここでも再度不適切な態度の一例として、リッチャルド公(食事の際に音を立てること)を取り挙げています。何か不調和がないこと、つまり物事の節度が全体から見て整っており、そうした配分がそぐうことで初めて美しさが光輝くとしています。特に服地や服装に関しては節度を持ち、着る人の人格としっくりマッチしたものを纏うこと、借り物のように見られないよう、身分に適したものを選んでほしいとあります。

 ここまで28章のうち4つの章を紹介しました。時代背景による思想的な考え方や生活習慣の違いはあるにせよ、どの章も「よいたしなみ」というその根本的な部分では、時を超え現在でも変わらず通用します。文学的な引用や比喩も多く、納得できる事例と丁寧な説明は、若い甥だけでなく、読者をよいたしなみへといざなってくれるでしょう。

 『ガラテーオ』最終章の第30章は、言い残した「~してはならない」を綴ったべからず集の様相になっています。本文最終行では「もう耳にタコができたと言う人が、ひょっとすると多勢いらっしゃるかも知れません」と、自らのたしなみも示しながら結ばれています。

 この「~してはならない」に関連して、本学HP内、観光振興研究紀要(3巻1号)「明治中期から昭和前期における「國際儀禮」概念の受容と変遷過程―礼法書から読み解く「國際禮儀」から「國際儀禮」への変遷―」のタイトルで、筆者の拙論が掲載されています。礼儀から儀礼までの変遷を考えるための文献として「Don’t」というべからず集を参考文献に使用しています。そちらも合わせてご覧くだされば幸甚です。

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