文化財保護か、生活の彩りか
2023年9月、台湾・新北市にある金瓜石(きんかせき/ジングアースー)鉱山に行ってきた。
台湾の観光地と言えば誰もが知っている九份(きゅうふん/ジョウフェン)にほど近い場所にあり、地域の歴史的背景や成り立ちは九份とそっくりなのに、金瓜石はあまり知られていない。日清戦争の結果台湾を領土とした当時の日本政府はこれらの地域での鉱山開発を推進した。岩手県の釜石鉱山を運営する田中事務所が台湾総督府による開発募集に応じ、金瓜石において坑道や製錬所のみならず、日本人技術者や鉱夫のための生活インフラを整備した(波多野 2019:121)。そうしてできた鉱山町の一部が現在「新北市立黄金博物館区」となっており、いくつかの和風建築物や産業遺構が「文化資産保存法」によって、日本で言うところの文化財にあたる「文化資産」に指定されている。
「博物館」とはいえ、いかめしい建物が立っているわけではない。日本統治時代の町並みと生活の様子を保存するために囲い込まれた空間を「博物館区」と呼んでいるのである。もともとは地域住民によるまちづくり活動の一環として、金瓜石のまち全体を「博物館」にしようというアイデアがあったそうである(波多野 2019:129-130)。それがいつしか台北県(現・新北市)主導となり、日本統治時代の文化の保全・保護が主目的となっている。
ここでは太子賓館という、当時の皇太子(後の昭和天皇)のために建てられた休憩施設を見たり、本山五坑坑道で当時の鉱夫たちの作業風景を見たり、山を少し登ったところにある黄金神社(金瓜石神社遺址)で鳥居と拝殿の柱を見たり、黄金館で220kgの金塊に直接手で触れたり砂金採りを体験できたりする。何より人気なのが、「鑛工便當」(鉱夫弁当)である(写真)。当時の鉱夫たちが使っていたような簡素なアルミの弁当箱に排骨飯が盛り付けられていて、箸といっしょに風呂敷で包んで供される。お店で食べたあと、それらはお土産として持ち帰ることができる。観光地のようであるが、全てはあくまで日本統治時代の生活様式の保全という一点で統一されていることがわかる。
そんな金瓜石である「事件」が起こった。黄金博物館の隣にある祈堂老街という、当時鉱山で働く台湾の人々が形成した古い町並みにある坂道階段の欄干が住民の手で色とりどりに塗られてしまったのである(波多野 2019:124)。ここは現在でも生活地域であり、文化資産指定がなされていない。住民の意思で何をしようと勝手であろう。しかし、昔ながらの町並みを保全するという観点からは大問題である(記事も参照)。面白いことに、この「虹の欄干」は「観光対象=観光資源」として人気となり、そこで撮った写真がInstagramなどにアップされている。
文化財の保全は学術的にも重要であることは間違いないし、それによって地域の独自性が保たれ、観光資源としても活用できるというのは言うまでもない。しかし一方で、もし地域の人々に「観光者を喜ばせたい」という意思があり、しかもそれが地域の人々にとっての楽しさや生活の質の向上に資するものであるならば、こうしたことも許されると思うのである。さらに、「虹の欄干」が多くの観光者を惹きつけ、地域住民にとっても町のシンボルと認識されるようになれば、E.コーエンのいう「創発的真正性」(Cohen 2004:109-110)が備わり、いつしか金瓜石の「ほんもの」となることであろう。
文献
波多野想 2019「文化遺産は誰のものなのか―台湾における日本統治時代の建築―」西川克之・岡本亮輔・奈良雅史編著『フィールドから読み解く観光文化学―「体験」を「研究」にする16章』ミネルヴァ書房
Cohen, E. 2004 ‘Authenticity Commoditization in Tourism’, Contemporary Tourism—Diversity and Change. Elsevier:101-114 (=Annals of Tourism Research, 15, 1988:371-386)