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観光Web講義


谷崎 友紀

『金毘羅参詣名所図会』にみるこんぴら詣で①

 前回は、こんぴら詣でを取り上げた案内記のなかで最も古い『金毘羅参詣海陸記』(1778)について紹介しました。次に紹介したいのは、それより70年ほど新しい、弘化4(1847)年に出版された『金毘羅参詣名所図会』です。

 〔旅と観光の今昔〕では、第3回に『都名所図会』(1780)を取り上げました。その際に、この案内記の特徴は名所を俯瞰的に描いた図絵であることを紹介したかと思います。『都名所図会』は、家に「居ながらにして」名所見物をした気分になれるということで人気を博し、当時のベストセラーとなりました。それをうけて、各地で同様の趣向を凝らした「名所図会」が作成されました。今回紹介する『金毘羅参詣名所図会』もそのひとつです。

 『金毘羅参詣名所図会』は、大坂の戯作者である暁鐘成によって著されました。挿絵を描いたのは、同じく大坂の画家である浦川公佐です。版元は、江戸・京都・大坂の書林(本屋)となっています。6巻6冊の体裁からなり、縦26㎝の大きさは、『都名所図会』と同じように、「居ながらにして」眺めることを想定して作成されたものといえるでしょう。

 では、さっそく中身をみていきたいと思います。1巻目は、「浪華川口出帆之図」から始まります。凡例に、「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」とあるように、大坂から船でこんぴらさんへ向かうことが想定されています。また、「摂津・播磨の海辺については以前出版されたものに詳しいため、今回は備前の海辺から著すこととした」ともあり、「浪華川口」のあとには歌枕である備前国の「虫明の迫門(せと)」が取り上げられています。

『金毘羅参詣名所図会』の記載名所

 上の図は、『金毘羅参詣名所図会』に記載された名所を地図に表したものです。凡例の色は、赤いほど記載された巻が早く、青になるにつれて後ろの巻に記載されていることを示しています。暁鐘成自身が『名所図会』の凡例に記していたとおり、1巻に記載された名所の多くは、備前国の沿岸部、もしくは海中の島々であることがわかります。『名所図会』の記載順は、こんぴら詣でへの道順が意識されており、1巻は大坂を発して瀬戸内海の航海で終わります。

 図を見ながら、2巻以降の記載名所を簡単に紹介してみたいと思います。2巻では、冒頭に丸亀港へ着船する様子が描かれ、そのあとに目的地であるこんぴらさんと道中の名所が登場します。3・4巻では、こんぴらさんより西にある琴弾山、仁尾の浦など現在の観音寺市や三豊市の名所が紹介されています。ここでは、伊吹島や大島といった、沿岸部から臨める島々にも触れられています。5巻は、根来寺や国分寺などの現在の坂出市の東部から高松市の西部にかけて取り上げています。最終巻となる6巻では、冒頭に石清尾八幡宮や高松城が登場します。そのあとの紙面のほとんどは、屋島の源平合戦にまつわる名所で占められています。

 暁鐘成は、『金毘羅参詣名所図会』を作成するにあたり、浦川公佐を伴って取材をおこないました(柳瀬万里(1998)『版本地誌大系19金毘羅参詣名所図会』解説、臨川書店)。つまり、この『名所図会』は、鐘成の取材旅の記録だと捉えることもできます。冒頭の凡例には、「炎暑によって疲れてしまい、碑文などを写すことができなかった場所については、再びその地へと赴き、詳しく写して拾遺の編に載せたい」とあり、53歳の夏に旅へ出た鐘成の苦労が表れています。

 残念ながら、『金毘羅参詣名所図会』の続編が出されることはありませんでした。こののちの鐘成は、『西国三十三所名所図会』(1853)や『摂津名所図会大成』(安政年間/1855-1860)といった案内記を相次いで作成しているので、讃岐国を再訪する余裕がなかったのかもしれません。

 最後に、左の図は『金毘羅参詣名所図会』でこんぴらさんの「拝殿の傍から北のほうを眺めると、讃岐富士と称される飯野山をはじめ、丸亀、宇多津、八栗、五剣山、備前の児島まで見えて絶景である。夕陽の頃はひときわ良い」と紹介されている図絵です。そして右は、図絵で参詣者が描かれているあたりから、私が2019年5月に撮影したものです。

 私の写真はあいにく曇り空ですので、眺望についてはわかりにくいかもしれません(鐘成と違い、こんぴらさんの比較的近所にいるので、再訪して綺麗な写真を撮りたいと思います)。また、『名所図会』のほうは、少し上からの視点で描かれているため、両者の視点はやや異なっています。それでも、図絵と写真を見比べると、図絵のほうが飯野山を少々誇張して描いていることがわかります。また、やや俯瞰的に描いているとはいえ、飯野山の背後の瀬戸内海も現実と比べて大きくはっきりと描かれているように思われ、鐘成が瀬戸内海を背景にした讃岐平野のなかの飯野山という構図を強調したかった意図が読み取れます。

 鐘成がこんぴらさんを訪れてからは、約170年という年月が経ち、周辺の景観もかなり変化しました。しかし、田畑や集落が眼下に広がり、そのなかに飯野山がぽっこりと際立つさまを見ると、間違いなく同じ場所から見た風景であると実感することができ、170年前の旅人(鐘成)と思いを共有できたような嬉しい気持ちになります。

 次回も、もう少し『金毘羅参詣名所図会』を眺めながら、鐘成の伝えたかったこんぴら詣でについてみていきたいと思います。

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