せとうち観光専門職短期大学

観光Web講義


谷崎 友紀

『金毘羅参詣名所図会』にみるこんぴら詣で②

 前回は、暁鐘成によって作成された『金毘羅参詣名所図会』(1847)について取り上げました。今回も、その続きとして『金毘羅参詣名所図会』をもう少しみていきたいと思います。

 『金毘羅参詣名所図会』には、さまざまな名所が記載されています。暁鐘成が紹介した讃岐国の名所には、どのような場所が多いのでしょうか。名所を属性別に分類し、集計したものが下の図となります。

『金毘羅参詣名所図会』に記載された名所の分類

これをみると、寺社とそれに附随する堂塔塔頭が最も多い結果となっています。次に多い「地名」は、本文の記述をみると、名所として紹介されているというよりもランドマーク的な扱いだといえますが、ここでは便宜上名所として扱います。その次に多い「旧跡」には、源平合戦の古戦場などが含まれます。

 『金毘羅参詣名所図会』に記載された名所は、この3つ(4つ)が数としては圧倒的に多く、歌枕といった「和歌関係」以下の名所はあまり多くありません。「寺社」に附随する「堂塔塔頭」と、ランドマーク的な扱いである「地名」を除けば、『名所図会』に取り上げられた讃岐国の名所は、「寺社」と「旧跡」が中心だといえます。

 では次に、『金毘羅参詣名所図会』のなかでも旅の目的地となる金毘羅大権現のある琴平についてみてみたいと思います。ここでは、金毘羅大権現はもちろん、そのほかに周辺の名所として「象頭山八景」、「象頭山十二景」が紹介されています。このような八景や十二景は、近世に流行した「定数名所」といわれるものであり、有名なものでは近江八景や金沢八景などがあげられます。

 「象頭山十二景」は、四国新聞に掲載されていた『金刀比羅宮美の世界』の連載によりますと、幕府の奥絵師であった狩野安信(1613-85)・時信(1642-78)父子が、景勝を六景ずつ描いた十二景からなります(松岡明、2004「素晴らしさ詩画に示す」、金刀比羅宮美の世界、(2021.10.6、https://www.shikoku-np.co.jp/feature/kotohira/story/51.html))。

 具体的には、「左右桜陣」、「後前竹囲」、「前池踊魚」、「裏谷遊鹿」、「群嶺松雪」、「幽軒梅月」、「雲林洪鐘」、「石淵新浴」、「箸洗清漣」、「橋廊複道」、「五百長市」、「万農曲流」の十二景を指します。この十二景は時代がくだっても受け継がれていきますが、構成は常に一定ではなく、別の景勝が含まれる場合もあります。江戸時代に出版された金毘羅関係の古地図にも、これらの十二景が描きこまれています。

 しかし、『金毘羅参詣名所図会』では、上記の「十二景」よりも、「象頭山八景」のほうに重点が置かれているように思われます。「十二景」については図絵がないものが多く、本文中で紹介されているのみですが、「八景」については「興泉寺鳴鍾」を除く七景について、図絵つきで取り上げられているのです。

象頭山八景とそれにかんする記述

 上の表は、「象頭山八景」を『名所図会』への記載順に示したものと、各項目についての本文中の記述です。実際の図絵については、早稲田大学の古典籍総合データベースで資料を閲覧できるため、そちらを参照してください(https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_00236/ru04_00236_0002/ru04_00236_0002.pdf)。

 ①は、北から丸亀港をみた構図であり、手前から海、湊、そして一番奥に丸亀城が描かれています。②は、金毘羅大権現の紫銅の鳥居を東からみたものであり、鳥居を眺める人やくぐる人、その傍らにある石碑を眺める人などが描かれています。道をはさんで画面奥に桜、手前に松がみえます。

 ③については、満濃池の手前に鳥居と御堂がみえ、池の畔と空には鶴が描かれています。本文中に、池の下流が十二景のひとつであることが記されており、これは「満濃曲流」を指すと考えられます。

 ④には、街道と、そこを歩く旅人、街道脇の松並木と水田が描かれています。打越坂は、こんぴらさんより東にある打越池のあたりの街道を指すのだと思われます。⑤には、こんぴらさんへの参道が描かれており、参道沿いの建物や参詣者、茶屋の女と参詣者が話をしている様子がみえます。画面左上に鼓楼と、近年建てられたという石碑、清少納言の墓があります。この清少納言の旧跡については、次項に図絵付きで紹介されています。

 ⑥では、愛宕山自体の記述はみられませんが、愛宕山とその背景に浮かぶ三日月が描かれています。⑦は、八景のなかで唯一図絵がありません。「近世八景の内に加ふ」とあり、新しく八景に加えられたものだと推測されますが、詳細については不明です。

 最後の⑧では、山頂に雪の積もった飯野山が描かれています。手前には船の帆、山の左側に川津村が確認できるため、北から南を望んだ図であることがわかります。

 先に述べたように、鐘成は図絵を付してこれらの「八景」を取り上げました。鐘成は、「十二景」よりも「八景」に重きを置いた構成を考えていたのだろうと推察されます。

 前回にも触れたように、鐘成は絵師の浦川公佐を伴って、『名所図会』を作成するために讃岐国を訪れました。もちろん、「八景」の場所にも足を運んだのでしょう。しかし、図絵に描かれた「八景」は、鐘成が実際にみた風景とは異なります。

 鐘成が讃岐国を訪れたのは、閏5月から6月末、現在の暦でいうと夏になります。しかし、②「二本樹春風」では桜が咲いていることから春の風景が描かれていることがわかりますし、③「満濃池遊鶴」では鶴が飛来しており、⑧「飯野山積雪」では飯野山の山頂に冠雪が確認できることから、冬の風景が描かれています。鐘成が実際にみることのできなかった風景が描かれているのです。

 八景は、もともと様式が決まっており、「晴嵐、夕照、晩鐘、夜雨、帰帆、秋月、落雁、暮雪」が必ず一組となっています。江戸時代には、さまざまな地域で八景が選ばれ、世の人の知るところとなりましたが、風景のモチーフはさきに決まったものがあり、その様式に当てはまるようそれぞれの地域で風景が選ばれています。象頭山八景も同様に、八景の様式に合うように風景が選定されたものと思われます。

 先ほどの表には、この様式を象頭山八景に対応させたものをあわせて示しています。雁が鶴となっていたり、夜雨が秋雨になっていたり、多少の違いはみられるものの、象頭山八景にももともとの八景の様式が当てはめられていることがわかります。さきに八景の様式があったことで、鐘成は実際に自分がみた夏の風景ではなく、それぞれの様式に対応したイメージの風景を表象したのだと考えられます。

 鐘成が重視したと思われる象頭山八景ですが、誰によってつくられたのか、鐘成がなぜ十二景よりも八景に焦点を当てたのか、八景がこののちどのように継承されていったのかは、現在のところ不明です。江戸時代後期には、金毘羅参詣の流行にともない、案内記だけではなく地図類の出版も盛んにされるようになります。先述のように、こういった地図には十二景の記載はみられるものの、八景については管見の限り確認できません。

 象頭山八景は、こんぴら詣でと当時の旅文化、名所見物の実態について考えるうえで、重要なポイントとなると考えられます。このような課題を頭の片隅に置いたうえで、もう少しこんぴら詣でに関する資料をみていきたいと思います。

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