観光学は個別学問となりうるか? 前半
本講義「観光学事始め」では、これまで、大衆観光から持続可能な観光へという、観光学も一役買った、観光形態の変革について主にみてきました。現代観光学は、人間社会に有意味な現実である大衆観光の出現に直面して、1960年代頃から漸次的に形成されました。本講義では、大衆観光から生じた弊害を克服する新たな観光のあり方の実践、新たな観光のあり方から持続可能な観光への展開、などについて紹介しました。
しかし、「観光事始め」を謳いながら、肝腎の<観光学とはどんな学問か>や<観光学が探究する観光とは何か>といった話題には、あまり触れませんでした。今回からしばらくは、この2つの話題について話を進めます。
今回の話は、<観光学とはどんな学問か>という話題のなかでも、そもそも<観光研究は個別学問(discipline)となりうるか>という疑問です ― ここで個別学問とは、独自の研究対象と、その研究をとらえる独自の方法を有していて、他の学問から独立した学問をいいます。この疑問についての回答の肯否は、当然、観光学が成立するかどうかの一大事です。
観光には、図のように、多くのいろいろな個別学問が取り組んでいます。この図の作成者は、米国の観光学者ジャファー・ジャファリです。ジャファリは、1970年代後半に、ウィスコンシン大学スタウト校で観光研究(tourism study)の紹介でこの図を用いたようです。(ジャファリは、観光学の研究や教育の制度化に尽力した人です。後の回で詳しく紹介する予定です。)
この図では、21の個別学問が外側に並べられ、それらの個別学問から、それぞれの図の内側には、観光にアプローチする対象領域が配置されています。これをみると、前述のように、実に多くの個別学問が、それぞれの方法 ― この場合の方法は、理論とその検証手法をふくむ広義の方法論と考えられるもの ― を通して、観光の様々な見方を提供しているのがわかります。このように観光へのアプローチが多様であると、当然、それぞれの個別学問から導きだされる観光という事象も多様に特徴づけられそうです。
観光学が様々な方法で研究対象の観光という事象にアプローチする状況は、私が専攻してきた社会学でも同様です。私は、観光が個人にも社会にも重大な意味をもつ社会現象となった考え、社会学を通して観光研究に取り組むようになりました。
しかし、社会学にも固有の方法があるとは到底いえません。社会学について、物理学者のポアンカレが20世紀初頭に『科学と仮設』という書で、こんなような点を指摘しています。<社会学には固有な方法がないため、社会学者はたくさんの方法を考え出した。社会学はその有する方法の数はもっとも多く、そのあげうる結果はもっとも少ない科学である。>こうしたことが、<社会学は社会学者の数だけある>といわれる所以です。このような状況は、現在の社会学でもあまり変わっていません。
社会学が固有な方法に到達できない理由として、ポアンカレは研究対象の構成要素の複雑さを指摘します。その複雑さは次のように説明されます。<社会学者の取り扱う要素は人間である。あまりに相似ない、あまりに変わりやすい、あまりに気まぐれな、要するにあまりに複雑な人間である。そのうえ、歴史は再び繰り返すことはしない。>この点で、ポアンカレは社会学者をとても気の毒がっています。
ただし、固有の方法、とくに研究対象を客観的にとらえられる科学的方法をもたない学問の状況は、経済学と心理学を除くと、すべての社会科学にも当てはまりそうです。経済学や心理学にしても、物理学や化学のような自然精密科学(理論を数学で表わし実験で検証する科学)を手本とするならば、客観性の精度は怪しいもので、実際、経済学や心理学は、ご存じのとおり、しばしば現実を正確に説明できなかったり、学者によって説明が食い違ったりしています。
つまり、観光学を支える社会科学は、どれも固有の方法を通して科学的な説明をできないのです。そんな頼りない社会(諸)科学が観光の事象を研究対象としてそれぞれに探究しているのが観光研究です。
それでも、社会学、経済学、心理学、人類学、地理学などは、多くの議論や研究成果を積み重ねた結果、個別学問として広く社会的に認められています。それなら、観光学も ― 今はまだ60年ばかりの歴史しかもたない未熟な学問ですが ― 将来には、社会学、経済学、心理学、地理学などと並んで、社会科学の一分野として成り立ちうるのでしょうか?
たしかに、‘観光の研究や教育’が盛んになると,それが1つの個別学問として認知され,それに「観光学」という名称が用いられようになりました。実際、本講義にも「‘観光学’事始め」というように「観光学」という言葉を使っています。しかし、社会科学がどんなに自然精密科学から<‘科学的’に劣っている>としても ― この点については、またあらためて考えたいと思いますが ― これらの個別学問に頼って研究を進める‘観光研究’は、‘観光学’とよべるようになるのか、という疑問が頭に浮かぶでしょう?
<観光学が個別科学となりうるか>は、どうでもよい疑問には思えますが、観光をどのように研究し、また観光にかかわる研究成果をどのように学ぶかを少し真面目に考えてみると、それはけっこう真剣に突きつめたほうがよい疑問です。世界中にも日本にも、大学の研究や教育にこれだけ‘観光’を看板にかかげる学部や学科があるとき、観光学を漠然と学ぶのではなく、<観光学とはどんな学問か>、そして<観光学が個別科学となりうるか>を問いかける意味はあると思います。
問いの投げかけだけで、肝腎な答えをお話しできませんでしたが、つづきは次回とします。