感情労働としてのホスピタリティ労働 後半
今回は、ホスピタリティの提供―利用にかかわる観光労働の実態を探るため、価値中立的な、つまり、価値判断ができるだけつきまとわない、‘感情労働 emotion work’の捉え方を考えます。
とはいえ、社会科学には、その研究対象となる人間社会が価値や意味から成り立つので、価値判断がつねに絡みつきます。そのうえ、人間社会の現実は、研究者個人の主観によって切り取られざるをえません。このときにも、価値がまとわりつきます。このように社会科学がその研究において、価値や価値判断をどのように理解したらよいのかを、ここで少し、感情労働の議論を離れてみておきましょう。
社会科学では、価値の付与される現実を解明することが前提とされるので、まず、社会科学者は、‘事実の認識’と‘価値の判断’を峻別する態度を ― できるかどうかは別として ― 貫かねばなりません。このような研究者の態度のあり方を、マックス・ヴェーバーは‘価値自由Wertfreiheit’とよびました。
また、ヴェーバーは、価値自由の格率maxim ― 行為の規準 ― にもとづいて、社会科学者が次のように研究活動をすべきだ、といいます。つまり、社会科学者は、ある現実に私的な価値判断の主張をしてもかまわないが、いや、むしろ主張すべきだが、その私的な価値判断を事実の認識に絡み合わせてはいけない。当然、社会科学者が教育の場で、自身の価値判断を学生にたいして教壇から一方的に主張するのは、厳禁です。
そして、社会科学者は、自身の研究対象を認識する論理的に整合した視点 ― これをヴェーバーは‘理念形Idealtypus’といいます ― を明示し、その視点にもとづいて研究対象の現実を認識し、説明します。社会科学者は、この視点、つまり理念型という、‘現実を捉える根拠’をしっかりすえて、その現実のテーマを議論する人々と当該の根拠を共有したうえで、その根拠に則して現実を説明する。このように理念型にもとづいた説明が、一般に議論され、広く受け入れられたときに、社会科学の客観性が得られる、というわけです。
今回の講義は、観光労働の現実を捉えるさいの、理念型としての‘感情労働 emotion work’の概念(言葉の意味)や位置づけを考えてみます。
さて、ここから、ようやく‘感情労働 emotion work’概念の再構成です。
本講義の‘感情労働 emotion work は、ホックシールドの emotion work とは全く別次元の用語です。ホックシールドのいう‘emotion work’は、個人が自身の感情をコントロールする作用や操作としての‘work’ですが、本講義の‘emotion work’は、個人の感情が大きな比重で反映されるような仕事ないしは‘労働 work’として特徴づけられます。このように、本講義の‘emotion work’は、社会的行為(ある個人が特定あるいは不特定の他者を想定してなされる行為)としての労働における精神作用の‘感情’に焦点を当てた労働の形態ということになります。この労働形態には、マルクスKarl Marx による精神的労働と身体的労働の類型化が適用できそうです。マルクスは、労働が人間の本質的な社会的行為とみなし、精神的労働と身体的労働が統合するような労働のあり方を理想としました。
ただし、マルクスの精神的労働の類型では、主に知的に遂行される、現代の社会通念では頭脳労働という形態として特徴づけられています。つまり、マルクスの社会的行為としての労働には、労働者の感情の作用が想定されていません。労働に労働者の感情が大きく影響を及ぼすという意味での感情労働は、前回に紹介されたとおり、20世紀末にようやく社会的に広く注目されるようになった労働形態といえます。
そこで、本講義では、社会的行為としての労働形態を、まず、精神的労働と身体的労働に区分します。そのうえで、次に、社会通念の頭脳、感情、肉体という3つの労働形態の類型化に従い、精神的労働に頭脳労働 brainwork と感情労働 emotion work、また身体的労働に肉体労働 physical work を当てはめ、それらの3類型を社会的行為としての労働の形態に組み入れることにします。頭脳労働や肉体労働、さらに感情労働といった労働形態の類型は、学術的に実証されていませんが、この見方は、現代社会でも、労働の歴史を振り返っても、おそらく、多くの人たちが経験的に同意できるのではないでしょうか。
実際、ホックシールドも、著書のなかで、客室乗務員の仕事を取りあげ、感情労働emotional laborを頭脳労働と肉体労働と並べて、次のように用いています。
客室乗務員は、重い食事カートを押して通路を通るときには肉体労働 physical labor を行なうし、緊急着陸や脱出の準備をしたり、実際にそれを実施したりするときには頭脳労働 mental work を行なう。しかしこうした肉体労働や頭脳労働を行なっているなかで、彼女は何かもっと別こと、言ってみれば私が<感情労働 emotional labor>と定義することも行なっているのである。
この引用では、感情労働、肉体労働、頭脳労働を表す英語が多少異なりますが、ホックシールドの捉えている労働形態が、感情、肉体、頭脳という3つに類型化される見方は、社会通念上の労働形態の類型と同定されると考えてよいでしょう。
こうして、社会的行為としての労働は、精神的労働と身体的労働の枠組みにおいて、頭脳労働、感情労働、肉体労働が、ボロメオの環のように、それぞれの特性を有して、すべて相互につながりあって現れる社会的行為であるとイメージされます。ですから、頭脳労働、感情労働、肉体労働は、単体として特徴づけられる類型ではなく、社会的行為論の視点から、個人の労働過程でそれぞれが自律しつつ一体化する労働形態の類型であると考えられます。
それでも、社会的行為としての労働の形態は、労働者が従事する労働で発揮する主たる技能などに応じて、頭脳労働、感情労働、肉体労働として特徴づけられます。ただし、それらの3類型の労働形態が考察されるとき、他の2つの労働形態の特性との関係が考慮されなければなりません。つまり、たとえば、客室乗務員の労働については、その労働過程の特性ゆえに感情労働に焦点があてられそうですが、頭脳労働と感情労働との関係も含めて、統合的に考察されなければなりません。
また、頭脳、肉体、感情のいずれの労働形態であれ、労働力が商品となる賃労働には疎外が伴います。あらゆる形態の賃労働は、労働者が各自の労働力の対価に賃金を受け取るという点で、社会的に拘束された行為であるとみなせます。それゆえに、労働者の頭脳、感情、肉体が、労働力として組織に管理され、そこに疎外が生じる可能性があります。そして、賃労働の疎外は、様々な弊害を労働者にもたらします。
感情労働にのみ焦点をあてるホックシールドは、感情労働から生じる疎外として、自己疎外estrangement of selfを特に問題視しました。ここで、感情労働の自己疎外とは、本来の感情操作emotion work、つまり個人自身が意識的に操作したり無意識に作用したりする感情と、労働場面で組織が直接的ないしは間接的に介入して生起する感情とに分離や融合の発生する問題です。
たしかに、‘感情労働’の疎外は、疎外の次元、形態、質量、程度などにおいて、頭脳労働や肉体労働の疎外とは異なります。たとえば、過度の‘頭脳労働’による脳疲労は、肉体や精神への障害をもたらします。また、‘肉体労働’の単純性や単調性も、労働者の精神や身体にストレスを与えます。このように、人間の精神と身体の機能が不可分であること、つまり精神-身体相関的psycho-somaticな特徴によって、賃労働の疎外が多様なストレスとなって労働者の身体と精神に負の影響を及ぼします。
ホックシールドは感情労働emotional laborの深刻な問題を剔出しましたが、社会的行為としての労働における感情労働の全体的な特徴を描きだせていません。‘感情労働 emotion work’は社会的行為としての労働のなかに位置づけられて、はじめてその特徴が明らかになると考えられます。
それでは、感情労働はどのようなメカニズムで発現し、また社会的行為としての‘観光労働 work in tourism’にいかに位置づけられるのでしょうか。これについては、次回に考えてみます。