せとうち観光専門職短期大学

観光Web講義


安村 克己

大衆観光と自然破壊の問題

 今回は、大衆観光観光地の自然や生態系をどのように破壊するのか、を考えます。ある地域に豊かな自然や生態系があると、その自然・生態系が観光客を誘引する魅力、つまり観光対象(tourist attractions)となって、その(人が居住できないような)地域や(“豊かな”自然・生態系のなかで人が暮らす)地域社会が観光地になります。ところが、その地域の自然・生態系が、観光地になったがゆえに破壊されてしまう、これが大衆観光による自然破壊の問題です。

 自然・生態系観光対象となる観光地は、たいてい、“近代化に汚されていない”地域ないしは地域社会です。この“近代化に汚されていない”という文言は、前回の「大衆観光による文化変容の問題」でも出てきました。そこでは、大衆観光が、観光対象の商品化を通して、観光地社会の近代化をより高度に浸透させ、その結果、大衆観光が地域社会の文化自然を衰えさせてしまう、という仮説が暗示されましたが、この仮説の詳細については、また後の回に議論します。

 ここで本題を離れ触れておきたいのは、“近代化に汚されていない文化と自然の関係性についてです。「文化(culture)」という言葉は多義的ですが、人類学や民俗学や地域社会学などで用いられる文化には、しばしば、“近代化に汚されていない”という含意があります。つまり、伝統文化です。その(伝統)文化という用語は、近代化が地域に浸透する以前からつづく地域固有の価値や意味、そしてそれらが投影される事象や事物などを指します。こうした意味の(伝統的)文化は、地域の社会関係から成り立つのですが、地域固有の自然・生態系とも深いつながりをもつと考えられます。というのも、“近代化に汚されていない”(伝統)文化とは、ある地域に暮らす人々がその土地固有の自然・生態系のなかで、その影響を強く受けながら社会関係を築く過程で生まれてくるからです。

 ところで、人間社会の文化という用語は、自然・生態系と社会関係から織りなされる伝統文化の意味とは別に、人間社会が自然・生態系を統制しようとする文明の意味も表わします。たとえば、都市の文化的生活というとき、それには文明的と置き換えられるような含意があります。すなわち、「文化」という言葉には、伝統文化文明の意味が区別されずに使われているのです。このように、「文化」という用語は、学問においてさえも曖昧で多義的に用いられます(実は、観光学では、「観光」や「近代」という言葉もかなり曖昧に使われています)。

 いずれにせよ、“近代化に汚されていない”地域社会に分かちがたく結びついているのが、(伝統)文化と自然の関係です。そして、地域社会の(伝統)文化自然は、両方とも観光客にとって魅力的な観光対象となります。ところが、(伝統)文化自然観光対象となった結果、それらは観光によって“近代化に汚されて”(?)衰退したり破壊されたりしてしまう。この現実については、今後の話の展開にかかわりますので、ぜひとも頭の片隅においてください。

 寄り道をしましたが、本題に戻ります。大衆観光が観光地の自然を破壊する経緯は、主に2つ考えられます。ひとつは大衆観光客(mass tourists)による破壊であり、もうひとつは観光地側の観光開発(tourism development)による破壊です。

 一方で、大衆観光客による破壊とは、大勢の観光客が一挙に観光地を訪れ、観光地の自然・生態系を踏み荒らすせいで発生します。このような観光による自然破壊は、ある観光地で自然・生態系を保全する基準にたいして、観光の社会的収容限度が限界を越えたために起こる事態とみなされます。

 観光の社会的収容限度(social carrying capacity)とは、観光地の適正な観光客入込数を、いくつかの基準にもとづいて決める目安です。収容限度とは、もともと牛や羊をある放牧地においてどれくらいの頭数を入れるのが適切かを決める目安です。このような収容限度を観光地の適正な観光客入込数に応用したのが、観光の社会的収容限度です。

 このように、観光地の自然・生態系が破壊される1つの原因は、大衆観光客の側にあります。大衆観光によるある観光地の自然・生態系の破壊は、当地を訪れた観光客数の規模が管理・統制されず、観光客が無秩序に行動するために発生するといえます。コロナ禍以前(2020年)の日本インバウンド観光で注目されたオーバーツーリズムと同型の事態が、1970年代から80年代前半にかけて、大衆観光の自然破壊や文化変容として深刻な問題となっていました。当時「オーバーツーリズム」という言葉は使われていませんでしたが。

 またもう一方で、観光地の自然・生態系の破壊を生みだす観光地側の問題は、観光地の観光開発、とくに大衆観光客を受け入れるための大規模な観光開発に起因します。観光客入込数を増やして観光による収益を得たい観光地は、豊かな自然・生態系をもつ広大な土地のなかや隣接地に、たとえば熱帯雨林のなかやマングローブなどが群生する海岸などに、大衆観光客を大量に収容できる宿泊施設やリゾート施設を建設したり、そこにアクセスするための交通施設や道路や港湾施設といったインフラストラクチュアを整備したりしました。それらの開発や建設のために、観光地の観光対象である自然・生態系が破壊されたのです。

 かくして、大衆観光客と観光地側とによる2つの要因が重なり、大衆観光が観光地の自然・生態系を破壊します。大衆観光がその観光対象に及ぼす負の効果として、繰り返しますが、前回と今回で説明したような、観光地の文化の変容自然の破壊があるのです。

 ただし、前回の「観光による文化変容の問題」において、実は観光が文化の変容や衰退を惹起するだけでなく、文化の保護や再構成や創造にも寄与することもあると説明したように、同様な事態が「観光による自然破壊の問題」にも発生します。すなわち、観光は観光地の自然・生態系の破壊をもたらすだけではなく、観光の運営・管理の方法を変えることで、観光による観光地の自然・生態系の保護を実現する状況もあるのです。それがエコツーリズム(ecotourism)です。このエコツーリズムは、後の回に詳しく説明されます。

 ところで、観光地の“近代に汚されていない文化や自然が観光をとおした近代化によって損なわれるというこれまでの説明に、なにか腑に落ちないものを感じた人がいるかもしれません。

 たとえば、こんな疑問です。発展途上国の観光地住民が観光客をとおして先進国や都会の生活スタイルにあこがれるのは、間違っているかしら?“近代化に汚されていない”文化や自然に価値をおく態度は、高度に近代化した社会に暮らす人たちのスノビズム(教養人を装うスタイル)ではないかしら?

観光地住民が自らの文化や自然を保つように求める観光は、その人たちに未開性の商品化を押しつけてはいないかしら?  こうした疑問は、大衆観光を考察した観光学において繰り返し議論されました。次回は、それらの疑問にも触れながら、観光学が探究した大衆観光の意味を考えていきます。

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