「観光」より「くらし」? | せとうち観光専門職短期大学|業界最先端の学術と実務を学べる

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田保 顕

「観光」より「くらし」?

朝日新聞クロスサーチで「くらし」と「観光」をキーワードに記事検索を試みたところ、次のようなタイトルの記事が見つかった。

接戦制した「生活重視」 観光より暮らしを軸に 箱根町長選 /神奈川県 『朝日新聞』2020年10月27日朝刊、p.25(朝日新聞クロスサーチ、2023年10月3日閲覧)

記事によると、この選挙は新人同士の「一騎打ち」で、前副町長の勝俣浩行氏(当時66歳)が飲食店経営者の田村洋一氏(当時55歳)に195票差で競り勝ったのだそうだ。具体的には、勝俣氏の得票数が3,135票であるのに対して、田村氏のそれは2,940票であった(箱根町長選挙 – 2020年10月25日投票 | 候補者一覧 | 政治山を参照)。これは僅差といって差し支えないであろう。しかも、投票率が63.46%と高く、前回の35.82%を大きく上回っている。町民の選挙、ひいては町政に対する関心の高さがこの数字によく表れている。

箱根は古くからの温泉町であり、富士箱根伊豆国立公園にある日本有数の観光地でもある。そんな町の首長の選挙結果を伝える記事タイトルに「観光より暮らし」などと書かれていると、ドキッとしないだろうか。「生活重視」の観点から、観光振興を重視しない方向に進んでしまうのだろうか。観光はくらしより価値のないものとみなされたのだろうか。

実際にはそんなことはないようで、新町長に選ばれた勝俣氏は箱根の価値を高める観光事業への支援を表明している。また、選挙戦のなかで、「ただ人を呼べば良いという観光は間違っている。道路を直し、ゴミを処分し、きれいな町にお客様を迎えることで、リピーターが増える」と、町民の生活の質向上が観光振興につながるという考えを強調しさえしているのだ。

一方の田村氏は、元助役が町長を引き継いできた流れを改革し、「民意を反映させるべき」と訴えている。観光協会と連携する観光局新設を唱え、それが観光業界からの支持につながったようである。記事によれば、田村氏の選挙運動を旅館や商工団体の青年組織が支えたようで、今回の投票率の高さも彼/彼女らが投票所に足を運んだことが一因だとされている。

勝俣氏と田村氏の選挙戦は「くらし」vs「観光」の戦いだっただろうか? よく見てみると、これは「くらし」同士の戦いだったことがわかる。勝俣氏は育児、教育、福祉、衛生、交通、雇用といった地域住民の生活基盤を整えることを強調した。一方の田村氏は、観光業に携わる人々の生計維持を強調したわけである。2020年は新型コロナウイルス感染症拡大を受けて緊急事態宣言が発令され、街からも観光地からも人がいなくなってしまった。先行き不透明な状況のなかで、観光業に携わる人々が観光を重視する田村氏の言動に一縷の光を見いだしたとしてもおかしくはないだろう。

「観光より暮らし」などと書いてしまうと、それを見た人は「そりゃまぁそうか、遊びより地に足のついた生活を重視するわな」などと、深く考えずやり過ごしてしまうかもしれない。しかし、この記事の登場人物たちのなかに観光を軽視する者など一人もいないのだ。「くらし」をどうとらえるか、「くらし」をどう支え、いかにより豊かなものにするか。その方法論について見解が相違したのである。

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