旅人の属性にみる京都見物の特徴
前回は、近世初期の京都を訪れた知識人である石出常軒の、歌枕を中心とした名所めぐりについてお話ししました。今回は、常軒をはじめとする知識人と、前々回取り上げた『伊勢讃岐道中日記』の作者のような庶民で、京都見物をおこなう行動にどのような差異があるのかについて紹介したいと思います。
両者の比較にあたり、なるべく同じ条件で比較をおこなうため、武蔵国から京都を訪れた旅人を対象としました。また、庶民による旅日記は、18世紀以前のものは現存しているものが非常に少なく、19世紀のものが非常に多く残されています。そこで、両者の比較をおこなう旅日記は、19世紀以降のものを中心とし、庶民による旅日記29点、知識人による旅日記12点を選出しました。
まず、両者による名所への訪問割合の地理的な特徴をみてみたいと思います。第1図は、庶民が訪れた名所を地図化し、訪問割合を示したものです。これを見ると、庶民による訪問割合の高い名所は、鴨川の東側に位置する東山と、市街地が広がっていた洛中に集中していたことがわかるかと思います。当時、三条大橋と六角堂の周辺には宿が集中しており、庶民の多くは六角堂前に宿泊していました。訪問割合の高い名所は、宿からあまり遠くない一方で、遠方である西部の嵯峨にある名所をみると、清凉寺以外はほとんど訪問されていません。7割の庶民が訪れている名所を具体的にあげると、清水寺、北野天満宮、知恩院、東本願寺、大仏、三十三間堂、伏見稲荷、内裏、西本願寺、黒谷、祇園社、吉田神社、真如堂となります。
次に、知識人による名所の訪問割合の特徴をみてみましょう(第2図)。知識人は、訪れた名所が広範囲にわたっており、三条大橋からみて北西部にある北野天満宮・仁和寺周辺や、さらに西部の嵯峨へも多くの人々が訪れているのがわかると思います。知識人のうち、3割の者が訪れた名所は、洛中・洛外を問わず分布しており、網羅的な名所見物が行われていたことが指摘できます。先ほどと同様に、7割の知識人が訪れた名所をあげると、清水寺、北野天満宮、東本願寺、大仏、西本願寺、祇園社、東福寺、平野神社、鹿苑寺、東寺、知恩院、黒谷、真如堂、愛宕山、仁和寺、南禅寺となります。
ここで、両者を比べてみると、東山と洛中に行動が偏っている庶民の名所見物に対して、知識人は広範囲の名所をめぐっていることがわかります。訪問割合の高い名所も、知識人のほうが多く、その分布も洛中洛外を問いません。
もう少し細かく旅人の行動をみてみると、庶民層の旅人には共通する名所見物の経路がみられました。それは、第3図に示した内裏から東山の吉田神社や黒谷を経て、知恩院へ向かう経路です。この経路は、庶民のうち17人(うち2人は逆順)が選択しており、彼らの間で定型化していたと考えられます。知識人たちも、もちろんこれらの名所を訪ねているのですが、彼らはさらに東側にある南禅寺や永観堂、銀閣寺まで網羅する傾向がみられます。図中に赤で示した経路で東山北部の名所を網羅すると、庶民の経路をもう一往復するようになり、所要時間も2倍になると思われます。ここから、短時間で主要な名所をめぐりたい庶民と、時間がかかっても多くの名所を網羅したい知識人という、社会階層によって名所見物への姿勢が異なる様子を窺い知ることができます。
庶民層の旅人にとっての「主要な名所」、京都に来たらどうしても訪れたい名所というのは、先述した訪問割合の高い名所だと捉えることができます。彼らは、なぜこれらの名所を重要視していたのでしょうか。次回は、彼らの名所見物にある背景について、もう少し詳しくみていきたいと思います。