せとうち観光専門職短期大学

観光Web講義


安村 克己

社会の成り立ち 個人と社会の関係 その1

 今回から数回にわたり、「社会学 sociology が社会 society をどのようにとらえるのか」という設問を考えます。この設問への解答は、「社会とは何か」、あるいは「社会はいかに成り立つのか」という疑問をも明らかにできそうです。ただし、この設問は、社会学の究極的な問題なので、当然、容易に解答のでない難問です。それでも、何人かの社会学者の見解を手がかりにして、この設問を考えてみます。

 今回‘その1’では、社会学が<個人と社会の関係>をどのような視点でとらえているかを、著名な社会学者の視点をとおして紹介します。

 個人と社会の関係を考えるとき、「人間は‘社会的動物’だ」という成句が思い浮びます。この成句は、アリストテレスのポリス的動物と関連づけられているようです。アリストテレスは、『政治学』において、ゾーン・ポリティコンzoon politikonという言葉を用い、人間がポリス的動物であり、ポリスの形成者だと指摘しました。アリストテレスのいうポリスは、人間が最高善を達成するため、必然的かつ自然発生的に形成される、共同体としての国家です。ポリスの成立は、近代国民国家とは、いろいろな点で異なりますが、‘社会’が‘個人’の集合として成り立つ状態、‘個人’から‘社会’が構成される状態は、変わりません。

 こうした、個人と社会がどのように関係するかを解き明かすことは、社会学が社会の成立を探るとき、まず焦点のあてられる課題であると考えられます。一方で、個人が集まって社会を形成するので、その観点から、<個人が社会をつくる>または<社会が個人につくられる>といえます。ただしもう一方で、個人は、既存の社会に生まれ、その社会に適応して生きられるように社会の様々な慣行(文化や社会制度など)を身につけ、様々な場面の行動様式を学習します。この学習過程は、社会化 socialization とよばれます。このことは、<個人が社会につくられる>または<社会が個人をつくる>といえます。

 さらに、個人と社会は、歴史のなかで次のように関係しあいます。個人は社会のなかで成長する過程で新たな社会形成の過程にかかわる。新たに形成され変容した社会によって、そこに生まれてくる個人が社会化される(つまり、社会につくられる)……。このように錯綜した個人と社会の状況が、同時的にかつ経時的に連綿と繰り返されるかのようです。こうした個人と社会の関係を、社会学はどのようにとらえたらよいのでしょうか?

 この課題を考えるために、社会学が個別科学として世に広く認められる功績を遺した、同時期の2人の社会学者エミール・デュルケーム(1958年-1917年)とマックス・ヴェーバー(1864年-1920年)の社会学をみてみましょう。2人は、‘個人’と‘社会’の関係をしっかりと考え抜いています。デュルケームとヴェーバーは、それぞれに固有な、社会学の認識論や方法論を徹底的に追究しながら、そうした基礎論にもとづく、いまや古典となった経験的業績を数多く世に問うています。しかも、面白いことに2人の社会学の特徴は、全面的に対蹠的です。

 社会学の方法論がいまだに収拾がつかない源泉は、社会学を学問の地位に押し上げた、この2人の社会学者による社会のとらえ方が対立したことに遡られるのではないか、そのようにさえ、わたしは勘ぐってしまいます。デュルケームとヴェーバーは、それぞれフランスとドイツで研究生活を送り、デュルケームはドイツに留学さえしたようですが、両者の交流が全く確認されていません。第一次大戦を間近にした当時のフランスとドイツの国際事情もあったにせよ、2人の偉大な社会学者が互いにシカトしあう事態は、社会学の方法論をめぐる対立に理由があったのかもしれません。2人の社会学の比較は、あらためて紹介します。

 話が逸れました。デュルケームとヴェーバーが、<個人と社会の関係>をどのようにとらえたか、ということに話を戻します。一方のデュルケームは、個人から離れて実在する社会を、‘社会的事実 fait social’として、自然科学と同じ方法でとらえる、それが社会学の目的だと考えました。また、もう一方のヴェーバーは、個人の‘社会的行為 soziales Handeln’(直接的・間接的、一般的・個別的など、いずれの状況にせよ他者のかかわる行為)を基礎単位として、その社会的行為が歴史的個体 das historische Individuum である(つまり歴史的に固有な)社会事象をいかに生みだすかを解明するのが社会学の目的である、と考えました。

 一方のデュルケーム社会学をみると、社会はたしかに個人の集合から構成されるけれども、個人が社会制度(行為、思考、感情などの様式、あるいは集合意識)を構築すると、その構築された制度は、個人から離れて、つまり個人にとって‘外在的’となり、その制度が独自の法則で作動するようになります。そうした社会制度を、デュルームは、‘社会的事実’とよびます。

 社会的事実は、人間の意志や感情をもたないようなモノです。だから、モノとしての社会的事実の研究には、もともとモノを研究する自然科学と同様な方法が適用できる、というわけです。そのうえ、個人から離れて実在する社会的事実には、個人によるコントロールができなくなり、しばしば、個人の行為などを拘束する特性があります。例えば、法、道徳、宗教、犯罪、流行、戦争、……など、人間の生みだすあらゆる社会事象が、社会的事実といえそうです。デュルケームは、個人の問題がその原因ではないかとみられる自殺さえ、社会的事実だと指摘します。デュルケームのいう社会的事実のような特性をもち、現実に存在するとみなされる社会のとらえ方は、社会実在論 social realism とよばれます。

 他方のヴェーバー社会学によれば、社会は実在しません。実在するのは、個人の‘社会的行為’だけです。社会的行為は社会事象を生みだします。社会的行為の主体は人間ですから、その社会的行為には個人の合理的思考や価値判断が反映されます。そのような社会的行為を研究する社会学だからこそ、社会学には自然科学と同様な方法は適用できない、とヴェーバーは断言します。

 そのさい、社会学の研究は、その研究対象が意思をもつ人間だからこそ、むしろ、意思をもたない研究対象を扱う自然科学よりも優位だ、とヴェーバーは考えます。なぜなら、社会学者は、研究対象の人間の社会的行為について、その行為主体である個人が何を志向して行為をしたかが‘理解 Verstehen’できるからです。たとえば集合的な社会的行為によって、ある社会事象が発現したとすると、その社会的行為を‘理解’した結果と、同時に、その行為の経緯の観察結果とあわせて、当該社会事象の発現した因果関係が明らかになる、とヴェーバーは考えるわけです。これは理解社会学 verstehende Soziologie とよばれます。

 このようにヴェーバーは、社会的行為の探究にもとづいて社会事象の出現を解明し、結局、一般にいわれる(ヴェーバーそうは呼ばない)近代社会の動向を鋭く解明するのですが、社会の実在は認めません。個人の集合を表すのに便利だから‘社会’という言葉は使われるけれども、それは言葉による表現上のことで、社会が実在するわけではないのです。ヴェーバーのような社会のとらえ方は、社会名目論 social nominalism とよばれます。

 ところで、余談ですが、政治の領域では、社会の実在を否定する発言として、イギリスの元首相・故サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)の決まり文句が有名です。サッチャーは、1987年に“Woman’s Own”いう雑誌のインタヴューに答えて、“There’s No Such Thing as Society”と発言しました。この「社会なんてものはない」というセリフは、「個人の問題を社会のせいにして、政府に頼ろうとするな」という主張でした。サッチャーは、イギリスに市場原理を導入し、民営化と規制緩和によって、従来の福祉国家イギリスを自立国家に変身させ、アメリカ元大統領・故レーガン(Ronald Wilson Reagan)とともに、その後に新自由主義経済が世界を席巻する端緒を拓きました。これをみても、政治や経済のような実践的な領域で、政治的リーダーが、個人と社会のどちらに重きを置いて政策を履行するかは、社会全体の動向に大きく影響しそうです。

 また社会学の個人と社会の関係に話を戻します。デュルケームの社会実在論とヴェーバーの社会名目論は、どちらの主張にも、社会学の認識論、方法論、実証的研究業績の全体において、透徹した洞察が貫かれていて、いずれかの見解に賛否を投じるのはむずかしそうです。そこで、社会実在論と社会名目論を両立させる、社会学における個人と社会の関係をとらえる新たな視座を構築しようとする研究も進められるのですが、これがなかなかうまくいきません。そうした社会実在論と社会名目論を揚棄せんとする新たな視点の構築については、次回その2で紹介します。

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