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観光Web講義


安村 克己

はじめに 「社会学入門」のスタートにあたって

 観光Web講義の一科目として、これから「社会学入門」を連載します。社会学は、地理学や人類学などと並んで、観光学の研究を支える主要な社会科学の一分野です(観光Web講義「観光学事始め」第14回)。観光学とのかかわりで、社会学社会現象としての観光の現実を解明します。

 ただしこの「社会学入門」の講義では、観光学との関係にはあまり触れず、社会学とはどのような学問かを明らかにするつもりです。とくに、<社会学は社会や社会現象をどのように捉えるのか>という問題を中心に考えてみます。

 ところが、「社会学入門」とはいいながらも、肝腎の社会学がいまだ体系的な知識構成体をもつ個別学問となっていません。もちろん、社会学には立派な古典が数多く遺され、多くの教科書も著されているのですが、それらを読めば社会学の概要がつかめる、と誰もが太鼓判を押せるような書籍は、いまだに見あたりません。

 <社会学は社会学者の数だけある>といわれるほど、社会学の研究領域は広く曖昧で、社会学者がそれぞれに取り組むテーマは夥しい数に及びます。自称社会学者は各自の方法で各自のテーマに取り組んでいるのが、社会学の現状です。

 社会学のテーマが夥しい数であるのに応じて、社会学にはテーマごとに連字符社会学という、特定分野ごとに多数の特殊社会学が存在します。連字符社会学は、カール・マンハイムが命名した用語です。連字符というのはハイフンのことですが、ハイフンでその前・後の言葉をむすぶように、テーマや対象領域と社会学を――ハイフンなしですが――つなげたのが、連字符社会学です。

 たとえば、連字符社会学を思いつくままに列挙すれば、家族社会学、都市社会学、農村社会学、産業社会学、政治社会学、経済社会学、歴史社会学、知識社会学、科学社会学、教育社会学、数理社会学、……といった具合に、その数は限りがないようにみえます。そして、観光社会学も、もちろんあります。多様な領域の異次元なテーマがありすぎて、連字符社会学をすっきり類型化することは、どうもできそうにありません。

 さらに、連字符社会学には理論社会学というのもあります。私(筆者)自身の専攻として、観光社会学と並べて、理論社会学をあげることがあります。先ほど、特殊社会学としての連字符社会学という言い方をしましたが、理論社会学は、特殊社会学を統括する一般社会学のようにもみえます。しかし、実際に理論社会学は、すべての特殊社会学に理論を提供できるような一般社会学とはなっていません。理論社会学も、連字符社会学として、特殊社会学の一つということでしょうか。このあたりが社会科学として、社会学の苦しいところです。

 このように、連字符社会学の各テーマをとらえる社会学独自の、理論を含む、広い意味での方法が、社会学には見あたりません。20世紀初頭に物理学者アンリ・ポアンカレが『科学と仮設』という書で、こんなような点を指摘しています。<社会学には固有な方法がないため、社会学者はたくさんの方法を考え出した。社会学はその有する方法の数はもっとも多く、そのあげうる結果はもっとも少ない科学である。>こうしたことが、<社会学は社会学者の数だけある>といわれる所以です。このような状況は、現在の社会学でもあまり変わっていません。

 社会学が固有の方法に到達できない理由として、ポアンカレは研究対象の構成要素の複雑さを指摘します。その複雑さは次のように説明されています。<社会学者の取り扱う要素は人間である。あまりに相似ない、あまりに変わりやすい、あまりに気まぐれな、要するにあまりに複雑な人間である。そのうえ、歴史は再び繰り返すことはしない。>このように社会学の研究対象が人間のつくる社会というきわめて複雑で捉えどころがない特性を有する点で、ポアンカレは社会学者をとても気の毒がっています。

 ただし、固有の方法、とくに研究対象を客観的にとらえられる科学的方法をもたない学問の状況は、経済学と心理学を除くと、すべての社会科学にも当てはまります。しかも、経済学や心理学でさえ、物理学や化学のような自然精密科学(理論を数学で表わし実験で検証する科学)を手本とするならば、客観性の精度は怪しいもので、実際、経済学や心理学は、ご存じのとおり、しばしば現実を正確に説明できなかったり、学者によって説明が食い違ったりしています。

 つまり、社会科学では、自然精密科学のような方法を通して、自然精密科学と同様な科学的説明はできないのではないか、と勘繰ってしまいます。社会学をふくめ社会科学の方法は、そんな頼りない状況です。

 そのようなわけで、社会学の科学としての一般的な評判はあまり芳しくありません。そのような評判の一端が現れた話が、知日派の社会学者、故ロナルド・ドーアよって語られています。ドーアは著書『貿易摩擦の社会学――イギリスと日本――』(田村延男訳、岩波新書、1986年)を出版社から依頼された経緯を語り、社会学についての世間の評価を次のように慨嘆しています。

「貿易摩擦の社会学」とは恐れ入った。私にはそんな売れそうな本が書けるはずはない。しかし――と岩波のかたがなぐさめてくれる――現代の日本の出版会では「何々の社会学」という場合の「社会学」は、何も学術的な、科学的分析を意味するのでなく、もう少し軽く「その社会的背景についての私的感想」みたいな意味にもとれるから、ご安心なさいと。/なるほど、我が社会学――私はまだ「社会学者」と名乗るくせがついている――は、かくも世の中で学問として相手にされない状態にあるのだろうかと悲しくなった。……

 引用が少し長くなりましたが、世間の社会学という学問にたいする見方はこんなものかもしれません。

 社会学は19世紀半ばにオーギュスト・コントによって命名されました。その社会学の学問としての状況や評判は、その名称が誕生した19世紀半ば以降も進化せず、高度化する近代社会の仕組みや動向がますます複雑になるのに伴い、むしろ混迷しているかにさえみえます。

 社会学という学問の情けない話がつづきましたが、それでも、その実績は、捨てたものではありません。社会学が探究する社会人間が複雑であり難解である分、ほぼ2世紀にわたり、多くの社会学者がさまざまな優れた方法見解を個別に考えだしてきました。社会学が編みだした方法見解は、物理学の方法で導きだされる、物理学者マックス・プランクがいう、統一的(いまは二分されているようですが)物理学的世界像のように、科学的な社会学的世界像をめざせる状況ではありません。それでも、考え抜かれた方法論や知識社会学の世界にあふれています。

 また、社会学は科学になろうと努力する途上で、社会学の認識論やメタ理論といった科学哲学の議論を大いに展開してきました。残念ながら、それらの議論は結論をだせずにいますが、その議論の集積は、社会学者だけでなく、一般的に多くの人々にさまざまな知的刺激を与えられそうです。たとえば、科学のパラダイム革命を提唱した科学哲学者トーマス・クーンは、量子物理学で博士号を取得しましたが、社会(科)が科学的になるための哲学的議論を盛んにしたことにとても感心しています。

 社会学という学問にとって、社会人間は、捉えどころのない複雑で多面的な研究対象なので、いろいろな視点や方法でアプローチして、それぞれの結果が自然科学のように統一されなくてもよいのかもしれません。そもそも社会(科)学の研究対象は、自然世界とは異なり、価値や意味がまとわりつく人間世界です。とうぜん、社会(科)学自然精密科学の方法は異なります。社会学自然精密科学の方法を手本とする必要はない、ということです(もちろん参考にする部分はたくさんありますが)。哲学者ジャン-ポール・サルトルは、社会科学自然科学を模倣することの過ちを次のように指摘しています。

自然科学が、無生物に人間固有の諸性質を貸し与える擬人観から脱却したのは正しかった。しかし同じ筆法で人間学のなかへ擬人観の蔑視をもちこむことは全く馬鹿げている。人間を研究する場合に人間に人間固有の性質をみとめることよりもっと正確でもっと厳密な何ができるというのか。

 かくして、人間世界(おそらく人間世界は自然世界にふくまれるですが)を思考する方法は、提示された手続をとおしてより多くの人たちが納得できるなら、哲学者ポール・ファイアーベント知的アナーキズムに倣い<なんでもあり Anything goes!>でよい、と私は考えています。ただし、誰もが納得できる思考をするのは、むずかしい。それが問題ですが、本講座では、とことん深い思考を楽しみ、社会を解明する、そんな社会学の入門編をめざしたいと思います。

 次回からは、冒頭で述べたように、社会の成り立ち社会現象の出現について、社会学の考え方を探っていきます。

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