江戸時代の犬の旅―自立した「飼い犬」像
全10回を予定している本連載も、ようやく折り返し地点を過ぎました。過去5回の連載では、動物園、花鳥茶屋、見世物、サーカス、動物駅長と、人々が動物を見に行くレジャーを紹介してきました。今回は番外編として、動物自身が旅をした題材を取り上げます。
江戸時代、犬が伊勢参りをする事例が相次ぎました。単に犬が飼い主に連れられて伊勢まで行ったわけではありません。病気等で参詣が叶わぬ飼い主の代わりに、単独で伊勢参りに向かったのです。にわかには信じがたい出来事ですが、代参を成し遂げた犬の像と共に、多くの記録が各地に残されています。
下の画像は、歌川広重の「東海道五十三次」(隷書版)の「四日市」です。ここにも、首に荷物を括りつけて旅をする代参犬が描かれています。
飼い主のために犬が代参する話は、今の香川県にある金刀比羅宮でも言い伝えられています。伊勢参りを行った犬は「おかげ犬」と呼ばれ、金毘羅参りをした犬は「こんぴら狗」と呼ばれています。
仁科邦男の『犬の伊勢参り』(2013年 平凡社)によれば、次のような仕組みで犬による代参が行われていたそうです。飼い主は、餌代、船賃、賽銭代など旅の費用となる銭と、参宮の旨と住所を記した木札を犬の首に結びつけて、犬を送り出します。道中で犬と出会った人々は木札を見て、その犬が伊勢の方向へ進めるように導きます。それが繰り返され、やがて犬は伊勢へとたどり着きます。無事に伊勢神宮に着くと、人々の助けによって神宮のお札を手に入れます。お札を体に括りつけられた犬は、今度は首の木札に記された住所を見せることによって、またもや道中で出会う人々の手で帰路へと導かれます。
このように犬の伊勢参りは、旅路で出会う人々の善意と協力によって成立していました。飼い主からは旅で必要となる銭をあらかじめ持たされていましたが、出会った人々からの施しによって、帰るときには逆に銭が増えていたこともあったようです。しかし、すべての犬がそう至れり尽くせりで代参を果たせたとは考えられません。伊勢への旅は、現代と違って人間にとっても多くの困難が伴ったのですから、送り出されたものの二度と帰ってこなかった代参犬も少なくなかったはずです。
確実に帰ってくる保障のない長旅に飼い犬を一匹で行かせることができたのは、人間と飼い犬の関係が現代のものとは異なっていたからともいえます。江戸時代は飼い犬といっても、身分の高い者が狆(ちん)等を愛玩する例を除けば、多くが個人所有のものではなく地域に住み着いていた犬でした。「里犬」と呼ばれ、路地やお堂などに住み、餌を貰えそうなところをまわって生活していました。野良犬ともまた異なり、今でいう「地域猫」のような存在です。また、たとえ飼い主がいたとしても、犬は基本的に放し飼いにされており、現在のように個人宅でかわいがられるような飼い犬像とはやはり異なっていました。当時の犬は、現在と比べて人間からずっと自立した存在だったといえます。
一方、現代の日本人とペットの結びつきは、「赤ん坊と母親の感情に擬せられた頼るものとそれに愛を注ぐもの」の関係だと指摘されています(石田戢 2008年 『現代日本人の動物観』ビイング・ネット・プレス)。ここ数十年を見ても、ペットが家族の一員、特に子どもや弟妹、孫に近いものとして捉えられる傾向が強くなっているのです。それはわれわれの経験的にも、屋外で鎖につながれる犬が少なくなってきたこと、洋服を着せられる犬が増えてきたことなどからも実感できるでしょう。家族と同じように愛情を注ぎ、庇護する対象として犬を育てると、何百キロも離れたところへ宿もない旅をさせるという考えにはなかなか至らないでしょう。
江戸時代の犬の伊勢参りや金毘羅参りは、飼い主の信仰心の深さや飼い犬の厚い忠誠心がもたらした奇跡などではありません。旅路で出会った人々の協力と、現代とは異なり自立した環境で育てられた犬が運よく果たすことが出来た旅でした。