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谷崎 友紀

旅行圏の拡大と近代的風景の発見

 これまで、江戸時代の京都における名所見物について、当時出版された案内記(ガイドブック)に描かれた名所の様子や、人々の旅の記録である旅日記からわかる名所見物の実態についてみてきました。

 京都は、伊勢参宮を目的とした旅人にとっての一大目的地であったといえます。しかし、もちろん旅人たちの目的は、伊勢と京都だけではありません。彼らは、高野山、奈良、大坂などさまざまな土地を訪れています。そのなかで、少し特殊なのが金毘羅参詣です。

 金毘羅参詣は、江戸時代の後期に流行します。伊勢参宮より少し遅れて流行が始まるのが興味深いところです。幕末の志士としても知られる清河八郎が安政2(1855)年に金毘羅参詣をおこなった際、「金毘羅は数十年前からみんな信仰するようになり、伊勢と同じように遠国から集まっている。(中略)数十年前まではこのようなこともなかったので、神様も時代によって流行り廃りがあるのだな」と日記に記しています。八郎の印象では、金毘羅参詣が19世紀に入ってから流行り出したということのようです。

 実際に、関東地方から伊勢参宮をおこなった旅人の経路を分析した研究(小野寺淳「道中日記にみる伊勢参宮ルートの変遷―関東地方からの場合―」、人文地理学研究14、231-255、1990年)では、この時期に金毘羅参詣が増えたことが指摘されています。この研究では、1706~1939年の旅日記を分析しており、1700年代にはあまりみられなかった金毘羅参詣が1800年頃に増加に転じ、さらにその延長として四国八十八ヶ所巡礼や安芸の宮島、岩国の錦帯橋まで足を延ばす者が出始めたことが明らかとなっています。金毘羅参詣の流行が19世紀に入ってからではないかという八郎の記述ともぴたりと符合しています。この時期に金毘羅信仰・参詣が流行したことによって、旅人たちの「旅行圏」が拡大したのです。

 もともと、金毘羅権現のある象頭山は、雨乞いの神として地元民から信仰されていました。さらに、生きながら天狗道に入ったという逸話のある崇徳上皇の神霊が金毘羅に勧請されたという伝承から、金毘羅=崇徳院との解釈が広まり、そのイメージが世に定着したといわれています。それによって、天狗の入った参詣道中案内図が作成され、天狗の面を背負った金毘羅参詣者たちが全国各地から訪れました。歌川広重の『東海道五十三次』にも、天狗の面を背負った行者の姿が描かれています(第1図)。

第1図 「沼津」歌川広重『東海道五十三次』
国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)より転載
赤枠は筆者加筆

 “金毘羅さん“は、本学と同じ香川県にあり、本州からは、瀬戸内海を渡って来なければなりません。現在は、陸路であれば瀬戸大橋経由で来県する人が多いのではないでしょうか。ところが、江戸時代に瀬戸大橋はありませんから、旅人たちは船を利用して瀬戸内海を渡り、讃岐国を目指しました。最も一般的であったのは、大坂から丸亀の航路であったようです。

 現在の瀬戸内海は、点在する大小の島々が織りなす景色が「多島美」として国内外から賞賛されています。旅人たちもその瀬戸内海を通過しているのですが、彼らにとって瀬戸内海はいくつかの「灘」に過ぎず、「内海」「多島海」としての認識がなかったため、現在のような価値観でその景色を捉えることはありませんでした。 旅人たちは、大坂から乗船し、二日ほどを船の上で過ごし、途中、室(淡路島)などに立ち寄って寺社参詣をおこないながら、丸亀へ到着しています。その様子は旅日記に記されていますが、内海・多島海の美しさについては触れられていません。瀬戸内海の風景を現在のような価値観で評価したのは、江戸時代末から明治時代にかけて日本を訪れた外国人でした。

 瀬戸内海の風景を、近代的な風景観を持って最初に記述したのは、シーボルトだといわれています(西田正憲「近代の欧米人による瀬戸内海の風景の賞賛」、ランドスケープ研究59(4)、1996年)。文政9(1826)年に瀬戸内海を通過したシーボルトは、近代の自然科学の産物である「内海」「多島海」といった地理的概念を有していたため、瀬戸内海を当時の日本人とは異なる視点で捉えることができたのです。

 このような欧米人の価値観は、徐々に日本人の間にも広まり、もともとは歌枕の地や名所旧跡であった場所が、自然科学的な風景として賞賛されるようになりました。私たちのキャンパスがある屋島も、源平合戦の旧跡であったのが、溶岩台地の風景として捉えられるようになりました。

 こうして、近代になって外国人の価値観が入ることにより、人々の名所(場所)に対する認識には変化が生じました。その一方で、私たちは現在も金毘羅さんを訪れ、江戸時代の人々ものぼった長い石段に悲鳴をあげています。旅や観光の歴史を紐解くと、昔から変わっていないところもあれば、何か変化が生じているところもあります。そういった共通点・相違点から現代の観光をみるという視点も面白いと思います。

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