『京城勝覧』でめぐる東山見物 | せとうち観光専門職短期大学|業界最先端の学術と実務を学べる

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谷崎 友紀

『京城勝覧』でめぐる東山見物

 前回は、貝原益軒の作成した小型案内記である『京城勝覧』について取り上げました。今回は、その『京城勝覧』を手に京都見物をおこなった旅人について紹介します。

 旅人が自身の旅を記録したものを「旅日記」、もしくは「紀行文」、「道中記(道中日記)」などと呼びます。この旅日記には、旅人が訪れた場所、そこで見たものや考えたこと、泊まった宿や購入したもの、その際に支払った料金などが記されています。旅日記を読むと、旅人の行動や関心、当時の旅と名所見物の実態を知ることができるのです。しかし、旅日記には、旅人が名所見物の際に利用した案内記の名前が明確に記されることはあまりありません。案内記を購入したことは記されていても、それがどの案内記なのかわからないこともあります。今回紹介する旅日記である『旅中耳底歴』(木村三四吾『藝文余韻―江戸の書物―』、八木書店、2000年、(78-105頁)所収)は、「貝原翁の京都廻リ」(『京城勝覧』)を見て名所見物をおこなったと明記されている、少し珍しい貴重なものです。

 その旅日記を記した旅人の名前は、滝沢興継といいます。戯作者である曲亭馬琴の息子であり、医学を修めた人物です。『南総里見八犬伝』の版元である、山青堂・山崎平八に誘われ、文化12(1815)年に18歳で西国への旅に出発します。ちなみに、父の馬琴も『羇旅漫録』(1802)という旅日記を記しており、興継にはいろいろと旅のアドバイスをしていた様子が窺われます。

 京都に着いた興継は、8日間で120ヶ所の名所をめぐるという精力的な名所見物をおこなっています。6月中旬(現在の7月下旬)だったので、暑い中を歩き回る大変な日々でした。同行した平八とは馬が合わなかったようで、彼は炎暑のなかを毎日歩き回る興継を嘲笑しています。やはり、旅の道連れは慎重に選んだほうが、快適な旅ができそうです。

 興継は、京都見物の1日目に東山の名所をめぐっています。これは、益軒が『京城勝覧』でモデルコースの第1日目として設定したのと同じエリアです。そこで、第1図には、興継がめぐった名所(青)と、『京城勝覧』に記された名所(赤)を示しました。『京城勝覧』のモデルコースでは、三条小橋から見物が始まりますが、興継は四条通りの知人を訪ねてから見物に出かけています。

 訪れた名所だけを見ると、『京城勝覧』に記された名所をほとんどめぐっているのですが、その順序は異なります。『京城勝覧』では、三条大橋から四条通りに出たあと、建仁寺や六波羅蜜寺をめぐりながら南下し、清水寺を訪れたのち、法観寺や高台寺を経ながら北上し、祇園社、知恩院などを訪れる経路をとります。一方、興継は、先に祇園社と知恩院を訪れ、高台寺や法観寺をめぐりながら南下し、清水寺を見物、六波羅蜜寺や建仁寺を経て再び四条通りへ出るという、『京城勝覧』とは逆回りの行動をしました。

 旅日記には、その理由は書かれていません。推測の域を出ませんが、この日興継は「酉の刻(19時半頃。だいたい日没の時刻を指す)」に宿へ帰っています。当時は、日没を過ぎてまで名所見物をおこなうことはほとんどないため、時間的な余裕があったとは言い難く、それを見越して優先度の高い名所を先に訪れるようにしたのではないかと考えることができます。

 興継は、『京城勝覧』を見て名所をめぐるだけではなく、『京城勝覧』に記されていない名所に関する伝承を聞き集めていました。例えば、清水寺では、地主権現の拝殿の天井に描かれた龍が、音羽の滝の水を飲みに出てくるという俗説があることを書き留めています。興継は、旅に出る前に馬琴から「神社仏閣、名所古迹は漏らずしてよく観よ」と言われたことを旅日記に記しています。興継たち江戸時代の旅人は、ただ案内記(ガイドブック)を手に名所を訪れるだけではなく、名所に関するさまざまな事物や伝承を見聞きすることで、自らの見聞を広めようとしていたのです。

第1図 『京城勝覧』に示されたモデルコースと『旅中耳底歴』にみる興継の見物行動
基図は「正式2万分の1地形図」(明治42年測図)を利用した。
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