せとうち観光専門職短期大学

観光Web講義


谷崎 友紀

伊勢の御師と旅人たちの伊勢参り

 今回は、伊勢への旅について紹介したいと思います。江戸時代の旅は、「はじめに」で触れたように、とくに庶民の旅に関しては多くの場合が伊勢参宮を目的としたものでした。

 伊勢参宮の流行した要因のひとつには、伊勢の「御師(おんし)」と呼ばれた人々がいます。彼らにそれぞれ担当の地域があり(武蔵国、山城国、讃岐国…というように)、各地に出向いて伊勢神宮の宣伝活動をおこなっていました。それを受けて、各地の村では「伊勢講」が作られました。これは、講のメンバーが少しずつ費用を積み立てることで、毎年何人かが「代参」として伊勢参宮をおこなうことができるシステムです。これによって、毎年順番に誰かが参宮へ向かうようになり、人々は自分が旅に出られる時を心待ちにしていました。  

 御師は、宣伝活動をするだけではなく、旅人が伊勢を訪れた際には盛大なもてなしをおこないました。多くの旅人たちは、御師の屋敷に迎えられ、そこで「太々神楽」と呼ばれる神楽を奉納するための代金を支払います。そのあとは、夕食に豪勢なご馳走が並び、眠る際には絹の布団が支度され、翌日は用意された駕籠で二見浦見物へ行き、外宮・内宮を参拝したのちは村の人々に配る御札や土産物を持たせて貰いました。これを御師の「ホスピタリティ」と捉えることもできますが、「神楽代」のなかに宿泊費や滞在費がすべて盛りこまれていたとも言えます。御師を介した伊勢参宮は、非常にシステム化されたものであったと言っても過言ではありません。(もちろん、御師を通さずに参宮をする者や、一般の旅籠に泊まる者、神楽を奉納しない者などさまざまな形態の旅人がいました。)

 参宮のあとには、伊勢の名所見物をするという楽しみもありました。旅人たちは古市の遊郭で伊勢音頭を見物したり、二見浦を訪れたりしました(信心深い旅人は、参宮の前に二見浦へ訪れ禊をしてから参宮をおこないました)。また、朝熊山の金剛証寺にも参詣する者も多くみられましたが、途中の楠部峠からは二見浦を一望できました。案内記(当時のガイドブック)には、茶屋の横に置かれた遠眼鏡(望遠鏡)から景色を眺める人々の姿が描かれています。今でも景勝地の高台には望遠鏡が置かれていることが多いですが、江戸時代の人々も同じように楽しんでいたようです。

 このあと、旅人たちは土産物として万金丹を購入して、いよいよ大和・大坂・京都めぐりへ向かいます。

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