せとうち観光専門職短期大学

観光Web講義


平 侑子

おわりに

 これまで、本web講義ではレジャーや観光と関連する動物について、今昔さまざまな種類を紹介してきました。「はじめに」でも触れましたが、この分野に関する研究はそれほど多くありません。そもそも、動物を使った娯楽にはどのような種類があるのかさえも、整理されてきませんでした。

 この連載では、第1回の動物園から第9回の競馬まで、筆者の思いつくままに事例を列挙してきました。これらの事例から一つの傾向を読み取ろうとするなら、時代が新しくなるにつれて、動物の個体に関心を持って楽しむ傾向が出てきたといえるでしょう。

 江戸時代の動物に関連した娯楽を見ると、ほとんどが動物そのものの珍しさや話題性によって楽しまれてきました。花鳥茶屋・孔雀茶屋(第2回)は珍しい鳥の美しさをきっかけに人々を呼び込むものでしたし、動物見世物(第3回)はまさに動物の珍奇性が人を集める鍵となっていました。これらの場では、個体が持つ性格や生い立ちなどはさほど重要ではなく、動物の体型や模様などその種特有の性質が人を楽しませていました。言い換えれば、この時代の動物は、模様がきれい、芸が出来るなどといった諸条件を満たしていればどのような個体でも人々を楽しませることができる代替可能な存在でした。

 近代に入っても、動物をめぐる娯楽の性質はすぐには変わらなかったようです。動物園(第1回)も、本来は動物の種を学ぶ施設であり、個体が死亡すれば同じ種の動物を導入すれば十分人々を満足させられたと考えられます。サーカス(第4回)も、観客にとってみれば、動物に仕込まれた曲芸が楽しいのであって、各個体の性格等はそれほど問題ではなかったはずです。

 しかし、近年の動物をめぐるレジャーの場では必ずと言っていいほど個体に愛称がつけられ、多くの個体にファンがつくようになりました。最近話題の動物駅長(第5回)は、個体への注目の最たる例です。駅舎にネコがいれば何でもよい、日替わりでもネコさえ置いておけばよいというわけではありません。観光客は、わざわざネコの「たま」に会いに来ています。その個体を応援しているから、それがネコやイヌなど、ある種どこにでもいるような動物であってもわざわざ足を運ぼうとするのです。このような場では、人々は個体の生い立ちや性格についての情報を得ながら楽しみます。もはや彼らは代替可能ではなく、世界で1匹のかけがえのない存在として多くの人から愛情を注がれます。

 われわれが個体に愛情と関心を寄せるようになると、自然と、その個体は何を考えているのか、その個体は幸せなのだろうかと考えを巡らせるようになります。もちろん動物と会話することはできないので、その疑問に対して正解を得ることはできません。ただ、このように相手に心を寄せることで、動物が我々人間の理解し得ない別個の存在、あるいは娯楽のための単なる「道具」であるというよりも、もっと自分に近い存在として捉えられるようになります。

 例えば、競馬に関する近年の象徴的な動物観として、レースで負け続けるハルウララに自己投影をする人々を挙げました(第9回)。この出来事は、人々にとって競走馬が、自分自身を重ね合わせられるほど感情移入できる、自らにとても近い存在になりえることを示しています。動物園の動物にファンが玩具や餌を差し入れるのも、動物を単なる観察の対象物とするのではなく、好きな個体の気持ちを考え、幸せを追求したいと思っているからでしょう。逆に、サーカスから動物が消えていったのは、たとえいくら個体に注目しようとしても、サーカスでは動物の幸せを確保できない、観客側からは動物が幸せそうに見えないという問題を孕んでいるからかもしれません。

 このように、動物に関するレジャーの場では、種類というよりも個体に関心が向けられるようになってきているといえます。また、それに伴い、個体が幸せそうであることや、個体の幸せを願うことが「楽しみ」の一つになっていることも指摘できます。あくまでも人間目線で「幸せそう」と認識して楽しむのは、結局は人間側のエゴかもしれません。しかし、我々が認識する「動物の幸福そうな様子」は、現代の人間が安心して動物関連のレジャーを楽しむための条件の一つになりつつあるといえるでしょう。

 皆さんも、動物関連のレジャーの場へ行った際には、自分がどのように動物を見ているのかをぜひ自問してみてください。

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