せとうち観光専門職短期大学

観光Web講義


谷崎 友紀

金毘羅信仰

 香川県琴平町にある金刀比羅宮は、香川県のなかでも古くからの歴史がある神社であり、県内外から多くの人々が訪れる観光地のひとつでもあります。『香川県観光動態調査』によると、令和元(2019)年に琴平を訪れた入込客数は2,630,000人となっています(うどん県旅ネット「香川県観光客動態調査報告概要」https://www.my-kagawa.jp/research/feature/top/research)。この統計をみると、昭和63(1988)年の5,200,000人をピークに減少傾向にあるものの、香川県内では依然として多くの人々が訪れる場所となっています。

 金毘羅参詣は、日本の旅の歴史をみるうえで重要な現象です。旅が盛んとなった江戸時代、特筆すべきなのは伊勢参宮だといえます。『旅と観光の今昔』で触れたように、伊勢神宮の御師による宣伝活動の効果もあり、多くの人々が伊勢へ向かって旅立ちました。その旅は、参宮という宗教的なものでありながら、名所見物をしたり土地の名物を食べたりするなど、娯楽性に富むものでした。現在私たちがおこなっている観光旅行とあまり変わりのないものだといっても過言ではないでしょう。

 そのなかで、こんぴら詣では伊勢参宮と同様に特徴的なものでした。『旅と観光の今昔』の第10回でも触れたように、金毘羅に対する信仰は江戸時代に盛んとなりました。それによって旅人たちは、伊勢参宮を終えたのちに金毘羅参詣をおこなうようになり、旅の範囲が広がりました。金毘羅参詣が流行したことで、旅人たちは瀬戸内海を越えて讃岐国を訪れ、そのまま厳島神社や錦帯橋まで足を延ばす者も現れました。よって、金毘羅参詣の流行は、日本の旅の歴史をみるうえで重要だといえるのです。そこで、この新しいシリーズでは、江戸時代のこんぴら詣でについて深く掘り下げていきたいと思います。

 まず、金毘羅信仰とは何なのでしょうか。現在、金刀比羅宮は主祭神を大物主命とし、崇徳上皇を合祀しています。大物主命は、天照大神の弟である素戔嗚尊の子である大物主命の和魂だとされており、農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な神徳を持つ神様だといわれています(金刀比羅宮公式HP:http://www.konpira.or.jp/)。

 金毘羅大権現の祭神やその由緒については、古来さまざまな説がとなえられてきました。江戸時代に書かれた金毘羅に関する書物には、金毘羅神は天竺から飛来した神であり、象頭山の神窟に鎮座した、修験者のような様相をしたものだと記されています(松原秀明「金毘羅信仰と修験道」、守屋毅編『金毘羅信仰』雄山閣出版株式会社、1987年)。この金毘羅が先述の崇徳院と結びつくのは、竹田出雲らによる『金毘羅御本地崇徳院讃岐伝記』(宝暦6/1756年)が早いものだとされています(同上)。金毘羅神が修験者のような姿をしていたといわれていること、天狗道に入ったという崇徳院が金毘羅神と結びついたこと、金毘羅大権現の別当・金光院の住職のなかに、修験道と結びつく者がいたことなどから、金毘羅神=天狗といったイメージが世の中に定着することとなりました。

 歌川広重の描いた『東海道五十三次』(保永堂版・隷書版)には、天狗の面を背負った金毘羅道者の姿が描かれています(図1は保永堂版)。金毘羅大権現にまつわる霊験譚は、海難救助に関するもの以外にもさまざまなものがあり、このような伝承は出版物に記されて世の人に読まれるだけではなく、天狗の面を背負った道者たちが各地をまわって広めていたのです(武田明「金毘羅信仰と民俗」、守屋毅『金毘羅信仰』)。

第1図 「沼津」『東海道五十三次』(保永堂版)国立国会図書館デジタルコレクションより加筆・転載

 こうして金毘羅信仰の霊験が世の中に広まるとともに、こんぴら詣でをおこなう人々はますます増加したものと考えられます。そして、先述のように、それは当時の旅の経路に変化を生じさせるまでになったのです。このような旅人の行動については、またのちの回で詳しく触れたいと思います。

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